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東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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青森県立美術館 [三内丸山遺跡と青森]
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青木 淳JUN AOKI


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青森県立美術館
三内丸山遺跡と青森

青森県立美術館は、2000年のはじめにコンペがあって最優秀作品として入賞したものです。今、実施設計に入っており、2002年度から着工します。

この美術館は、縄文時代の巨大集落跡である三内丸山遺跡の隣に建つ予定の建物です。この遺跡はとても重要なもので、この遺跡の発掘によって、今までの縄文時代に対するさまざまな定説が覆されることになりました。僕の子どもの頃の教科書には、縄文時代と弥生時代の区別として、「縄文時代の人は裸に近い格好をしていて、弥生時代は服を着ている」、あるいは「縄文時代になかった農耕が弥生時代がら始まった」といったような記述がありました。つまり明らかに縄文人は原始人という扱いだったのです。青森は縄文の血を色濃く引き継いでいるところのようです。青森の人はある意味で縄文の遠い子孫だといえると思うのですが、かつては縄文人がこのように原始人的な扱いを受けていたために、青森の人たちはコンプレックスのようなものをもっていたのではないかと推察するのです。

ところが、この三内丸山遺跡からは、農耕が行われていた跡が発見されました。農耕といっても稲ではなく、粟とか稗といったさまざまな品種を生産していたようです。もちろん、漁や狩りもしていました。多面的な食物の取り方をしていたんですね。また、計画的に食物を育てていたということも明らかになり、今までわれわれがもっていた縄文人に対するイメージがずいぶん変わってきました。しかも、環境を破壊しなから収穫するという側面をもつ弥生の農耕のやり方に対して、縄文の農耕は多品種で、自然の営みや循環に調和、共存しうる方法ですから、われわれにとって学ぶべさ点が非常に多いのです。このように縄文時代に対する認識を一変させ、青森の人たちのコンプレックスを払拭してくれたのが、この三内丸山遺跡なのです。

ことの発端は、野球場の建設計画です。青森市の中心部からさほど離れていないこの場所に野球場をつくるつもりで造成を始めたところ、遺跡が発見されました。通常は、更地にする前に遺跡調査をして、それから工事を始めるのですが、この遺跡は更地にする前に一般に公開したのです。そうしましたら35万から40万人もの人が見学に集まったのです。どうしてこんなに多くの人が見学に訪れたのかというと、それはこの遺跡がそれだけ青森の人にとって重要な意味をもっていたからだと思います。このような多くの人の高い関心は、計画に大変更をもたらしました。総合体育公園から総合文化ゾーンヘの転換です。この美術館はそういった計画の一環として始まったものなのです。

このような経緯がありますので、この美術館は遺跡を意識せざるを得ない背景をもっています。しかし、どのように意識するかというのはとても難しい問題です。当然、僕らに縄文時代の建築様式はわかりませんから、それを用いるわけにはいきません。また、わかったところで、僕たちの今の時代の感覚とが生活様式とはまったく違いますから、それを模倣しても意味はありません。

遺跡からは六つの大きなクリの木の根本が出てきまして、それは何か構造物の土台だったことがわかっています。また、このクリの根本の直径から推測すると、構造物は相当に大さなものだったこともわかっています。こういったさまざまな研究をもとに、復元模型もつくられているのですが、この模型からは、どうも嘘っぽさしか感じることができません。六つの穴が空いているだけの方が、かえって雄大でリアリティを感じます。そこで、発掘している現場そのものを美術館にもってくることはでさないかと考えました。

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