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東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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内藤 廣 - 3.11以降の建築
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2014 東西アスファルト事業協同組合講演会

3.11以降の建築

内藤 廣NAITO HIROSHI


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質疑応答
 
東日本大震災以降、ご自身の建築のつくり方がどのように変わったか、具体的に教えてください。
内藤

結論は、まだ分からないですね。正直に言って、簡単に答えが出るようなことではないと思うのですが、もう一度人間の暮らしから考え直さなければいけないんだ、という当たり前のことを考え始めたのは確かです。私は、建築家の中でも、比較的そういった思考をする方だと自分でも思っていたのですが、震災を経て、よりそれが強くなったと思います。それから、設計したものが作品になるかどうかなんていうことは、わりと優先順位の後ろの方に置くようになった気がします。それが正解かどうかは分かりません。ひょっとしたら、素晴らしい建築作品が被災地の中に建つことによって、被災地の方が救われるという貢献の仕方もあるかもしれないけれど、それはたぶん私の役割ではないのでしょう。

伊東豊雄さんが「みんなの家」をつくっていますが、実は私もメンバーのひとりなんです。「みんなの家」は、仮設住宅での厳しい暮らしが続く被災地の人に、より人間的で居心地のよい場所を提供したいとの想いから始まったプロジェクトです。震災後、東京大学で先生方に集まっていただいた次の日、隈さんから、東大だけじゃなくて何人かの建築家で集まって話をした方がいいんじゃないか、いという主旨の電話があって、じゃあ伊東豊雄さんと山本理顕さんと妹島和世さんを呼びかけて相談しよう、という話になって集まりました。何をやれるか分からないけれど、ともかく何でもしよう、ということを話し合いました。伊東さんが5人の名前の頭文字を組み合わせて、「帰心(kISYN)の会」と命名し、「みんなの家」はこの集まりから派生したものです。

帰心の会で集まった際に、伊東さんが話していたことは、本日私が話したことと少し繋がっています。伊東さんの設計事務所の所員が、図面に向かって建物を設計することと、被災地に向き合うことが、上手く結び付かない、と言うらしいのです。それはおかしいだろう、というのが伊東さんの言い分です。それから一晩話し合って、「みんなの家」プロジェクトをスタートすることになったのですが、私はいまだにひとつもつくっていません。それ以上に私の立場でやれることが多すぎたので、後回しになっていました。もしつくるんだったら野田村につくりたい、と思っていたんですが、野田村は野田村で、土地問題などの必死の事情があって、未だにつくれていません。

ただ、「みんなの家」の活動は立派なことだとは思うんですけど、建築家として被災地に何ができるのか、ということが問われますよね。建築の作品性や作家性が、妙に鼻につく場合もあります。最近はある建築家がつくった、お菓子の家のようなものが五、六つ建っているような「みんなの家」を見ましたが、若い建築家の作家性としては分かるし、そういう取り組み方もあるのだろうけど、これはどうなんだろうと私は個人的に疑問に思いました。

正直に言うと、非難しにくいんですよね。被災地に出かけて、お金を集めて、ボランティアでつくるわけですから。それ自体は美談じゃないですか。だけど、その建物が本当に被災地にとってよいのかどうか、という議論は起きてこないですし、起きにくいんですね。建築界はもっと議論すべきだと思いますし、伊東さん自身も議論する材料を提供してるんだと思うのです。たとえば、建築とはまったく別の次元が重なり合うことで、面白いものができたりする。その面白いものとはいったいなんだろう、といった議論ができそうですね。

大工さんがつくるものと、私たち建築家が建築雑誌を賑わしている作品性が高いものとのズレに関しては、これまでも指摘されてきました。ある種の作品性のようなものがエネルギーとなって、これまで建築界を引っ張ってきたのは事実だし、建築は文化だと言ってもよいと思うのだけど、そのことと東日本大震災によって起きたこと、あるいは起き続けていることの間には、距離がある気がするのです。

「神奈川県立音楽堂」外観。
「神奈川県立音楽堂」外観。

講演中にお見せした大高正人さんの「福島県教育会館」には、不思議とそういった乖離がないのです。先週、開館60周年アニバーサリーということで「神奈川県立音楽堂(1954年)」の壇上に立ったのですが、1954年当時、横浜はいまだ一面焼け野原で、県議会では「図書館とコンサートホールの建設費で、アパートがいくつつくれるんだ」という議論があったそうです。しかし、アパートをつくるにしても一、二棟建てるだけのお金しかなかった。それなら、心の支えになるような文化の拠点をつくろうということで、前川國男さんが設計を担当しました。その時の建築は、建築家として建物を設計することと、当時の現状に対して向き合う気持ちがずれていなかったんだと思うのです。丹下健三さんがつくった「広島ピースセンター(1955年)」も、当時、周りに原爆被災者の墓石群が広がる光景の中から建ち上がっていったと私は聞いています。被災地をなんとかしたいという建築家の気持ちと、原爆被災者の方たちの気持ちとが重なり合うのです。東京工業大学に藤岡洋保さんという建築史の先生がいますが、藤岡さんは広島出身で、その当時のことや当事者の気持ちを調べたのか、焼け跡の中に建ち上がるその姿が、被災者にとって唯一の希望だったと言っています。

建設中の「広島ピースセンター」。敷地は墓地だった。写真は、工事中に丹下氏本人が撮影したもの。
建設中の「広島ピースセンター」。敷地は墓地だった。写真は、工事中に丹下氏本人が撮影したもの。

このことを踏まえて、現在復興を進めている岩手県、宮城県や福島県といった被災地に向き合う時に、本当に「みんなの家」でよいのだろうかと、私たちはもっとよく考えてみないといけない。活動自体は素晴らしい行為ですが、冷静に議論をして、未来に生かす必要があるのではないかと思っています。


 
今回お話しいただいた「静岡県草薙総合運動場体育館」以外の作品について、もう少しお聞かせいただけますか。
内藤

それには、講演会をもう一度させていただかないといけない(笑)。本当のことを申しますと、講演会で自分の建物について説明をすることが、最近までできませんでした。とてもそういう気持ちにならなかったのです。最初の質問に対する回答の中でも申し上げたように、作品性や作家性の高い建物をつくることが、被災地に対する建築家の結論になり得るかという問題がある中で、建物を説明しているとなんだか嘘っぽく聞こえてしまって、気が引けていたんです。ですが、ようやく2014年に入ってTOTOギャラリー・間で展覧会を開催するにあたり、ようやく今は勇気を出して喋らなければいけないかなと思っています。

設計に関しては、できる限り単純に考えるようにしています。たとえば、「九州大学椎木講堂(2014年)」の設計では、古典的な円形の中に、どうやって複雑にすることなく機能を納めるかを考えました。それから、2015年竣工予定の「安曇野市庁舎」は、ほとんど矩形のシンプルな建物形状をしています。

「九州大学椎木講堂」外観。
「九州大学椎木講堂」外観。

「まず単純に考えて、それから人の居場所をつくる」といった、いくつかの前提条件を自分自身に課しているのですが、その上で、結果的に作品にならなかったとしても仕方がない、とは設計の途中段階でいつも強く思います。設計をしている時から、作品性とはいったいなんだろうか、とそれ自体を疑う気持ちがすごく強くなっています。結果としてでき上がったものが、そこに暮らしたり使ったりする人に対して豊かなものであれば、それが第一の条件だと思うのです。本日、「静岡県草薙総合運動場体育館」をご覧頂きましたが、たまたま幸運にも、この建物はダイナミックな構造体と人間の営みが、ぴたっと上手く一致したのであって、最初からそれを目指していたのではないということです。

「九州大学椎木講堂」ガレリア。学生や市民の憩いの場としても利用される。
「九州大学椎木講堂」ガレリア。学生や市民の憩いの場としても利用される。
「九州大学椎木講堂」最大で3,000席のホール。
「九州大学椎木講堂」最大で3,000席のホール。

東京の密集市街地に小さな住宅を建てる場合も、基本形はただの箱です。そこから暮らしのことを考えて、建物の外壁から隣地までの3〜40センチメートルくらいの領域が、少しでも外側に豊かに広がらないか、というようなことばかり考えてますね。大きな建物でも、同じようにシンプルなものを組み上げて単純に考える。そういう考え方が強くなってきています。

そういうわけで、私のつくる建物に特徴があるとすれば、人間の暮らしを第一に考えてつくられている点かなという気がします。ただ、先日双葉町に行って大高正人さんの「福島県教育会館」を見て、「ああ、まだ全然足らん」と感じました。もっと単純に考えるべきなのかなと気付かされました。

私は、渋谷の都市再生特区全体を差配するようなまとめ役として、街づくりにも引っ張り出されることがありますが、建築分野外の問題であっても、考え方は全て同じだと考えています。都市工学や土木工学など、異分野の専門家に囲まれますが、建築家である以上は、人間の側から発言をすることにしています。あくまでも人間の営みに対する想像力に関しては、他の分野の専門家よりも、人の暮らしを常に考える側にいる建築家の方が長けているからです。

「安曇野市庁舎」外観。
「安曇野市庁舎」外観。
「安曇野市庁舎」階段室越しに執務スペースを見る。
「安曇野市庁舎」階段室越しに執務スペースを見る。
 
内藤先生は大学卒業後、スペインの事務所で仕事をされていますが、そこでの経験がご自身の作品に影響を与えていると自覚されることはありますか。
内藤

おそらく、若い頃に接した師匠には、非常に強い影響を受けていると思います。私の直接の師匠は、学生時代にお世話になった吉阪隆正先生で、吉阪さんからは人間や社会に対する考え方の基礎を教わった気がします。

大学院修了後スペインに渡り、フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所に勤務しました。フェルナンド・イゲーラスは、造形力という面では天才的な人ですが、建築家としては少し不幸なところがあって、あまり大成しなかったと私は思っています。私が行った時期は、たまたま事務所に仕事がなかったものですから、ほとんど毎日のように、フェルナンドが私の机に来て、スペイン全土の集落を空撮した『DesdeTechodeEspana(スペインの空から)という厚さ10センチメートルくらいある写真集を広げて、スペインのポピュラー・アーキテクチャのつくられ方をずっと教えてくれました。例えば、アンダルシアの辺りは雨が少ないので、屋根はフラットルーフになる。また、ガリシア州では年の七割くらいは雨が降るので、庇を設け、そこにベランダをつくって使い勝手をよくしている。それぞれの地域に場所性があって、その条件に合わせて集落ができている、ということを丁寧に説明してくれました。非常にリージョナルではあるが、合理的な建築のつくり方を叩き込まれたわけです。ですから、別にスペイン建築のつくり方の真似をするということではなく、その場所の気候や物理的な条件を素直に掬いとって建築に反映する方法が、私の建物の中に色濃く残っていると思います。

また、スペインから帰国後まもなくして、師匠の吉阪隆正さんによって菊竹清訓建築設計事務所に半ば強制的に入れられました。その理由はおそらく、「このままだと内藤の『建築に対する考え方』が固まってしまう」ということだったんだと思います。菊竹さんからは逆に、新しい技術でルールや思考のベースを壊していくようなマナーを教わりました。つまり、私の中には、菊竹さんに教わった、きわめて新しい技術を取り入れることによって、建築が伝統的なものに寄りかかることを回避する、といった発想もあるのです。ですから、ある部分ではフェルナンドの考え方を引き継いでいますし、またある部分では、それとは真逆の菊竹さんのような考え方も引き継いでいる。今思うとそんなふうに感じています。


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