アスファルトのルーツを求めて Ask for the roots of an Asphalt.

私達の快適な住空間を支える屋上のアスファルト防水。我が国で本格的な防水工事が施されたのは、今を遡ること1世紀以上も昔の明治時代初頭。最も古い記録は1905年(明治38年)大阪瓦斯新本社の低層部分に設けられた陸屋根部分と言われています。以来、アスファルト防水は多くの建物の屋上を守り、雨漏りを防いできました。防水層を形成するルーフィングやコンパウンド、その原材料の核となるのが「アスファルト」です。みなさんもご存知のとおり、現在流通しているアスファルトは、原油を精製して作りますが、実はこのアスファルト、自然界にも存在するのです。驚いたことに、最近の遺跡発掘調査から、我が国にも縄文時代には、採掘された天然アスファルトが交易品として流通し、生活のなかでも使用されていたというのです。燃土(ねんど)という名で日本書紀にも記された「天然アスファルト」 古代の歴史を紐解き、そのルーツに迫ります。

天然アスファルトの里へ

秋田県では、現在でも天然のアスファルトを採掘することができます。天然アスファルトが眠る鉱山を案内していただくのはNPO「豊川をヨイショする会」理事長の佐々木榮一さん。豊川をヨイショする会は、天然アスファルトの産地として一時代を築き、大正時代には石油の産地として栄えた豊川油田地域の遺跡を守り、その価値を全国に伝えようとさまざまな活動をしています。

2007年11月経済産業省から豊川油田は近代化産業遺産の認定を受け、更に2009年5月には、豊川油田地域の天然アスファルト露出地が日本の地質100選に認定されました。

訪問したのは秋田市内から高速道路を利用して約90分。バスケットボールの盛んな能代市にある二ツ井鉱山。ここでは、路面材に使用するオイルサンドを採掘していましたが、現在は操業を止めており、休止鉱山になっています。

鉱山に入ってみると、搬出路の道端などには油分が黒い筋となっているのが分ります。山肌を掘削した斜面では、露出している地層と地層の隙間から、アスファルトがにじみ出ているのを発見しました。こんなに天然アスファルトが露出しているとは驚きです。地質学的には、800~900万年前の下部七座凝灰岩という地層に含まれていて、採掘された土砂の10%程度が油分だということです。


豊川 天然アスファルト採掘後

我が国石油産業発祥の地 豊川

秋田市に隣接する潟上市の豊川地区。縄文時代には、ここから採取されたアスファルトが、東日本のみならず遠く海を越えて北海道にまで流通していました。江戸時代後期には油煙(ゆえん:墨や染料の原料となる他、燃料用としても利用されていました)の製造のために盛んに天然アスファルトが掘られ、大阪や江戸にまで出荷されていました。明治から大正時代にかけては、道路の舗装用としての利用がすすみ、最盛期には年間4,000tもの生産量を誇りました。

しかし、大正2年に豊川油田が発見されると、アスファルトの出荷は下降線をたどり、大正11年以降はほとんど採掘されませんでした。本格的な油田として活況を呈した豊川油田も、2001年(平成13年)には操業を停止し、現在、東北石油(株)によって若干の天然ガスを生産しています。平成25年は豊川油田の発見から、100周年となります。油田内では採油のための採油井が当時の面影を残しています。また、今回見学できませんでしたが、油田内の事務所には豊川油田の歴史を説明している展示室があります。中東の大掛かりなプラントと比べると大変簡素なものですが、我が国の石油産業の夜明けがここから始まったことを思うと感慨深いものがあります。

採油井のある場所から少し離れた場所に、アスファルトの採掘跡があります。現在では、直径70m水深7m程度の沼となっています。ガスや油の臭いもなく、アスファルトの採掘地であったことを示す案内板がなければ、とても多くの坑夫で賑わっていた採掘地とは想像できません。沼近くにせまる丘陵の山肌には、粘度の高いアスファルトが所々に顔を出しており、ここ一帯が、アスファルトの産地であったことを静かに物語っています。

アスファルトが示す縄文の交易

二ツ井鉱山 地層から滲む天然アスファルト

アスファルトが示す縄文の交易

豊川で採取した天然アスファルト

2012年5月12日に秋田県立博物館にて開かれた「豊川油田とアスファルト考古学」(主催:豊川をヨイショする会・秋田県立博物館、後援:秋田大学付属鉱業博物館)には、あいにくの雨天にもかかわらず、地質学や考古学の専門家、研究者、学生さんなど、アスファルトを愛してやまない熱心なファンが、100名以上も詰め掛けました。講演のトップバッターは、函館市立縄文文化交流センターの阿部千春館長。北海道の道南に点在する遺跡から出土した、数多くの矢じりやおもりには柄や網に縛り付ける際に接着剤として使用したアスファルトの跡が残っており、そのアスファルトの産地は豊川産が多かったという調査結果を報告されました。耐水性のある接着剤として利用されて、交易品として広く流通していたというのです。出土品に付着したアスファルトは、縄文時代の交易範囲を読み解く鍵だったのです。

次に講演された元秋田県教育庁文化財保護室長 大野憲司氏は、遺跡調査から判明した秋田県内の天然アスファルト使用例を紹介。博物館内の展示についても解説されました。

その後も、アスファルト考古学の創始者「佐藤傳蔵」の紹介や、「豊川のタールピット」(タールピット:天然アスファルトの沼、米国カリフォルニア州のラ・ブレア・タールピットやトリニダード・トバゴのピッチ湖が有名)についての講演が続きました。

そして、講演会の最後を締めくくったのは、前日からガイドを勤めていただいた、豊川をヨイショする会理事長佐々木榮一さん。豊川地区の天然アスファルト産状とアスファルト利用の近代産業史について講演されました。

江戸時代後期の黒沢利八による油煙製造、明治時代後期の由利公正による舗装事業、そして豊川油田の発見と、時代と共に発展した豊川の産業史について語られました。

そして、最後に講演会を盛り上げたのは、2012年5月9日の東京新聞26面の東京トリビア「日本初アスファルト舗装は…」というコラム。長崎・グラバー園内の道路と、旧昌平橋で争っていた「日本発」アスファルト舗装の座の話題。明治11年に、豊川産の天然アスファルトで舗装された旧昌平橋に軍配が上がったことを伝えた記事です。

旧昌平橋が架かっていたのは。現在の万世橋付近。田島ルーフィング(株)東京支店から目と鼻の先で、日本発のアスファルト舗装が行なわれていたとは…。とても不思議な縁を感じます。

会場では、漆とアスファルトの付着を試験した素焼きのサンプルや、聖書とアスファルトの関係についてまとめたパネルが展示されるなど、アスファルト関係者には興味の尽きないイベントとなりました。

縄文から現代まで、脈々と流れるアスファルトへの思い。ここ秋田にも、アスファルトのルーツがあることを実感しました。

日本書紀と燃える土

日本の歴史の礎となる日本書紀には、第38代天智天皇7年(668年)7月「越の国より燃土、燃水を献る」との記録があります。越の国とは、越前・越中・越後を含む広範な地域とされています。当時は、珍しい物品があると天皇に献上するという習慣があり、越の国で採掘された燃える土、燃える水が献上されたようです。

この越の国が、いったいどこをさすのか議論がありましたが、当時の歴史的背景や地政学的な見地から、新潟県胎内市黒川周辺が、日本最古の原油献上地と認定されました。

燃える土についても、石炭と表記する文献があるなど、諸説ありましたが、原油との関係から、アスファルトであることがほぼ確実視されています。

日本書紀 燃土燃水の文字が記されている

黒川燃水祭

黒川には、明治6年に来村し手掘り井戸による採油を指導した英国人医師シンクルトンの名を冠したシンクルトン記念公園があります。記念館には、明治時代に原油を採掘していた当時の資料が展示されており、わが国の石油産業勃興期の風景を見ることができます。建物の近辺には油田跡が残り、今でも付近では天然ガスが噴出し、臭いが鼻を突きます。

シンクルトン記念公園がもっとも賑わうのが「黒川燃水祭」。日本書紀に記された「越の国」が、黒川と認定されたことから、毎年7月1日に「燃える水」の神事と献上行列が行われています。神事・行列の様子は、「燃土燃水献上図」(大正3年:小堀鞆音作)を範にしたもの。1000年以上もの昔、飛鳥時代をしのぶ装束で執り行われます

神事は、油壷(自然に原油が噴出していた湖沼)から油を採取する「献上採油の儀」、採取した油に点火する「点火の儀」、そして火を鎮める「清砂の儀」へと進みます。壷に収められた油は、天智天皇を奉った近江神宮に献上されます。この献上の様子を再現したのが、神事の後に行われる献上行列。白装束を身にまとった越の国黒川臭水遺跡保存会の皆さんが、献上図さながらに行列を作り、燃水を収めた壷と、燃土を収めた行李を運びます。

黒川で採取された原油は天智天皇を奉った近江神宮へと運ばれ、毎年7月7日に行なわれる近江神宮の燃水祭に献上されます。

シルクトン記念館 シルクトン記念館 井戸の跡
献上採油の儀 燃土燃水献上行列

燃える水、近江へ献上

天智天皇を奉っている滋賀県の近江神宮では、7月7日 (土日になる場合には5日か6日)に、「燃水祭」が執り行われます。

近江神宮の燃水祭は、燭台に火が灯され黒川で採取された燃水を奉献し、参列者による献灯が行われます。日本書紀の奉唱後、女性4人による舞楽「八仙」が奏され、参列者による玉串拝礼、宮司挨拶と続き、祭典は終了です。以前は、近江神宮も燃える土を石炭などと表記していましたが、現在では、燃える土がアスファルトであることを積極的に表明するようになりました。

取材協力:Roof-net 編集長 森田 善晴

日本書紀の奉唱