アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
僕は高校を出てすぐにアメリカに行き、アメリカで建築の勉強をしました。アメリカから帰った1984年の暮れから日本で仕事を始めるのですが、実務経験がまったくありませんので、最初にやった仕事は建築の設計ではなく、展覧会の企画や会場構成でした。
アルヴァ・アアルトの展覧会では、なんとかアアルトらしい建築空間を再現したいと考えたのですが、予算には限りがありますし、数週間で終わってしまう展覧会のためにアアルトのようにふんだんに木を使うのはもったいないと考えました。何か木に代わるアアルトらしい材料を探そうと思って、たまたまめぐり会った材料が紙管でした。以前、エミリオ・アンバースの展覧会場をデザインしたとき、間仕切りを布でつくりました。布というのは紙管に巻かれていますので、展覧会が終わった後に大量の紙管が余ってしまったのです。僕は昔からモノを捨てるのが苦手で、それを事務所に持ち帰って何かに使おうと保存してあったのですが、アアルトの展覧会を企画しているとき、たまたまこれに目が留まりました。調べてみると、直径も厚みも長さもある程度自由になりますし、再生紙でできているので非常に安いのです。そこで、小さめの紙管でビープリのライプラリーの天井のようなものを、大きめの紙管で間仕切りをつくりました。また半分に割った紙管を既存の柱に巻いて、アアルトの作品の室内空間に見られるタイルの雰囲気を再現したのです。
この展覧会は予想以上に紙管が強度をもっているということを教えてくれました。これなら建築ができるんじやないかと思ったのです。僕は当時まったく建築の実務経験がなく法規も知らなかったので、逆に理論的に可能なことは何でも実現可能と思ってしまいました。紙管の開発や実験を始めたのも、怖いもの知らずだったからかもしれません。
1990年には、小田原で行われたイベントの仮設建築として「小田原パビリオン」をつくりました。このときは、紙管を構造として使うための認定を取っていなかったので、鉄骨の柱で屋根を支える形式にしましたので、紙管はあくまでも非構造体の壁です。壁といっても風を受ける二次的な構造材ですから、松井源吾先生に指導を受け、実験をし、小田原市から計可をもらいました。
ここで使った紙管は、直径53センチ厚さ15ミリ長さ8メートルです。室内は空調されているので密閉しなくてはいけないのですが、紙管と紙管の隙間から入るきれいな光を生かしたくて、透明のビニールのホースを紙管と紙管の間にはさみました。
トイレは直径が1メートル20センチもある太い紙管でできています。天井高が8メートルあり、音の響きはすごくいいし、万が一トイレットペーパーがなくなっても、内壁をむしって使えるようになっています。
友人である詩人の高橋睦朗さんの書庫「詩人の書庫」も紙管でつくりました。本が紙でできているのだから書庫も紙でつくろうという話になり、松井先生に相談したところ、「まあ僕が生きている間は大丈夫だよ」といわれたので実行に移しました。先生はお亡くなりになってしまいましたが、竣工後10年以上経った今も何ともありません。敷地が山の奥だったこともあり、確認申請は全部木造でとってつくってしまいました。紙管は直径10センチ、厚みが12.5ミリ、ジョイントは10センチ角の木です。
1994年にできた三宅一生さんのギャラリーは、はじめて三八案認定を取った恒久的な紙の建築です。そろそろ正式に認定を取ろうと、自分の別荘のために奔走してやっと紙の建築の三八案認定を取ったのですが、資金不足で実現にはいたりませんでした。そんな時期に依頼されてできたのが、このギャラリーです。
その後、ようやくお金ができまして、自分の別荘「紙の家」も完成しました。週末の家と思って設計したのですが、忙しくて年に一回も行く機会がなく、もはや週末の家とはいえません。紙管の数は20本、直径が28センチ、厚みが15ミリです。このうちの10本で、積雪荷重も含めて鉛直荷重をもたせ、80本で横力を負担しています。中の十字型木製ジョイントと基礎がラグスクリューで固定されていて、紙管社は全部キャンティレバー状になっています。外周部にガラスの引き戸がありますので、紙管と紙管の隙間はすべて開いており、普段は光や風が通るようになっています。