アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
建築は大災害によって変化してきたのではないか。東日本大震災の後で私はそんなことを考えています。これまで歴史の教科書では、建築が変化してきたのはコンクリートや鉄骨などの技術が進歩したから、と書かれていますが、それはちょっと違うのではないか。
人間の場合は、自分でもそう思うのですが、ひどい目にあうとなんとか変わろうと努力しますよね。うまくいっている時というのは、だいたい同じことを繰り返してあまり変化を求めませんが、ひどい目にあった時はこのままじゃだめだ、変わらなきゃいけない、と思うのが人間という動物なのではないか。そのひどい目が、大災害なのです。
1755年に起こったリスボン地震では、5〜6万人が亡くなったと言われています。当時の世界人口が7億人でしたから、現在の人口で考えると50〜60万人が一度に亡くなったということになりますから、これは非常にショックが大きかっただろうと想像できます。ましてや、当時のヨーロッパの人びとは、世界はヨーロッパだけだと考えていたわけですから、そんな中で5〜6万人が亡くなったということは、本当に大変なことだったのでしょう。
このリスボンの大震災の後、「ニュートンの記念堂(1784年、エチエンヌ・ルイ・ブーレによる計画案)」のような建築が出てきます。つまり、震災に負けないような、強く大きな建築をつくろうという考えへと変化したのです。装飾のない、強く大きく合理的な建築。これが20世紀のモダニズム建築へと収束していきます。
都市計画では、パリの都市計画が挙げられます。それまでのパリは、道幅が狭くごちゃごちゃした汚い街だったのですが、幅の広い道をまっすぐに通し、災害に打ち勝てる都市にするべきだと、人びとは考え始めたのです。
次の大きな災害は、1871年に起こったシカゴ大火です。リスボン地震と比較すると死者はそこまで多くはありませんでしたが、街の大部分が焼失してしまいました。この大火の後、まずシカゴで「ホーム・インシュアランス・ビル(1885年、現存せず、設計一ウィリアム・ル・バロン・ジェニー) 」などの「シカゴ派」の建築が建てられ、その技術を発展させたニューヨークで、「クライスラー・ピル(1930年、設計一ウィリアム・ヴァン・アレン)」、「エンパイア・ステート・ビルディング(1931年、設計一リッチモンド・H ・シュリーブ、ウィリアム・F・ラム、アーサー・L・ハーモン)」などの建築が建てられました。構造がコンクリートや鉄の、強く大きな建築です。このシカゴ大火がきっかけで、アメリカの建設技術が発達し、大きな建築が次々に建設され、結果、建築ではアメリカがヨーロッパに先行し、経済力で差がつき20世紀のアメリカの繁栄が生まれたとも言えます。
では、日本ではどうだったのでしょうか。近代以降の最初の大きな災害は、1923年に起こった関東大震災です。死者は十万人でした。2011年の東日本大震災では、死者は2〜3万人でしたが、その何倍もの方が亡くなられたのです。この関東大震災をきっかけに、建築の不燃化が日本社会のテーマになります。木造建築の建設に対して、法律的な制限が多くかかるようになり、コンクリートや鉄の強く大きな都市をつくらなければならないと考えられ始めました。
そして、今回の東日本大震災も建築にとって大きな転換のきっかけになるでしょう。強く大きいだけの建築でよいのか、ということが東日本大震災の最大の教訓だったのではないかと考えます。災害に負けないようにと建てた強く大きい建築で自然に対抗しても、余計にひどい目にあったのです。強く大きいだけではもうだめです。逆に小さくて柔らかい建築が、自然を尊重した場所、建ち方で建っていれば、大災害の時にもなんとか助かる。人間という動物の「巣」として建築を考えると、小さくて柔らかいものの方が、自然の圧倒的力の前では、かえって「強い」のです。
本日はそのヒントとなるお話ができればよいなと思っています。