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東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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横河 健 - 建築とテリトリー
テリトリーとは関係の問題である
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東西アスファルト事業協同組合講演会

建築とテリトリー

横河 健KEN YOKOGAWA


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テリトリーとは関係の問題である
テリトリーとは関係の問題である
展示棟一階エントランスロビー
展示棟一階エントランスロビー
トンネル住居 二階居間 左がキッチンブース
トンネル住居 二階居間
左がキッチンブース

今目の講演のテーマである「建築とテリトリー」ということから話を始めたいと思います。

このテリトリーという概念を、私はものづくりのひとつの方法と考えています。建築の世界においてものづくりというのは、形態をどうつくるか、あるいはどのような素材を使うかという問題で、建築家はそのことを日常的に考えています。しかし、私は、形態そのものとか、素材そのものというより、むしろ形態と素材の関係、あるいは形態と人、素材と人といった、関係性に興味があり、その関係をつかさどる重要な要素がこのテリトリーという概念であると思っています。

このテリトリーという問題は、公式や定理を使って論理的に説明できることがらではありません。だた、これは私だけが特別に感じていることではなく、むしろ誰もが本能的に感じ得ることですし、日常的に、無意識にかもしれませんが、感じていることなのです。動物のテリトリーを思い起こしてください。動物学者が、動物自身がもっている領域、あるいは動物同士がもっている領域、いわゆるなわばりについて言及しているのを、読んだり聞いたりしたことがあると思います。そういった動物のテリトリーと同じことを、自分のまわりでも感じたことがありませんか。

たとえば、ある人のお宅に何人かでおじやましたとします。居間に通され、ソファに座ることを勧められたとき、私たちは適当な間隔をとってソファに座ります。決して隅に肩寄せ合って座ったりはしません。招いた方も「どうぞ」などといいながらテープルにコーヒーカップを置いたりしますが、カップとカップをくっつけたりはせず、お客様の目の前に置きます。さらにいえばテーブルの端ギリギリのところに置いたりはせず、ある距離をとって置きます。こういうことは考えながらやっているのではなくて、本能的に、あるいは常識的に誰もが備えている感覚に従ってやっていることだと思うのです。逆にいえば、テリトリーに対する感覚がなくなってしまったら、日常生活が円滑にまわらなくなるでしょう。

人を大切にしたいからテリトリーを守る

しかしながら、この感覚は、誰もがもっている本能に近いものであるにもかかわらず、近年、鈍くなりつつあるのではないか、とも考えています。

例えば、通勤通学におけるラッシュアワー。多くの人が毎日すし詰め状態の電車に乗って会社や学校に向かいます。それこそ押し屋さんというのが存在するくらいに、ひどい状態だと聞いています。もちろん、誰も好んでラッシユアワーの電車に乗っているわけではありません。仕方がなく、そういった状況に置かれてしまっているといったほうが適切かもしれません。ですから、このようなことを申し上げるのははなはだ失札なのですが、私であればそりような状況を享受することはできません。混雑した街中でもそうです。人とすれちがって、たまたま肩が触れ合ってしまったとき、「失礼」ということばが出て当然な状況でも無視されてしまう。人と人との本来あるべき関係が壊れかかっているのかもしれません。

他人とぶつかったり、くっついたりすることに対して、人一倍嫌悪感が強いものですから余計にそう感じますが、自分自身のテリトリーを犯されたくはないのです。誤解されると困るのですが、人間が嫌いだからテリトリーを守るのではありません。お互いを大切にしたいからテリトリーを大切にするのです。

現在はテリトリーなど考えていたらやっていけない時代だからなのか、あるいはもっとほかの原因からなのかはわかりませんが、われわれが本来もっていたこのテリトリーの感覚がどうも鈍くなってきていると思わざるを得ません。関係に対する本能が蝕まれているのです。テリトリー感覚の鈍化、これを時代の趨勢として受け入れてしまうことに私はどうも抵抗がある。むしろそのような時代であるからこそ、この本来誰でもがもっている感覚をより意識し、かつ修練し、建築の世界に活かしていくことが必要なのではないかと考えています。

二十年来変わらないデリトリーに対する思い

トンネル住居という作品があります。1978年につくった私の自邸で、最初期の仕事になります。

二階は基本的には一室空間ですが、中程に木製の衝立にも似たブースが置かれています。このブースは外側からはTV、オーディオその他の入った収納家具であり、内側からはキッチンスペースでもあるわけですが、これを周囲の壁面に対して四十五度振って配置することにより、二階の一室空間を、階段室のテリトリー、居間的なテリトリー、ダイニングのテリトリーの三つのテリトリーに自然に分けることができたのです。しかも、それぞれは明確な境界線をもたず、互いにオーバーラップし、かえってそれぞれの空間が広くなったようにも感じられます。
 このとき私はテリトリーという概念を強く意識しました。自邸であったために、より長い時間、この空間に身を浸していたからかもしれません。人が気持ちよく過ごすということとテリトリーが密接に関わっているということをここではっきりと理解しました。

以来二十数年間、私にとってこのテリトリーという問題は、建築設計における大きなテーマとなっています。建築の世界には目地を切るとか、縁を切るということばがあります。モノとモノとがベタっとくっついている状態は気持ちが悪いので隙間をあけるわけですが、これもいい換えればモノのテリトリーをきちんと守ってやることです。アーティキュレートするということもまったく同じで、テリトリーを明快にすることで、モノや人の関係を円滑にすることです。私の設計なりモノづくりは、そのような試行の集積であるように思えます。

最近は私も住宅に限らず公共建築など、少し大きい建築の設計もさせていただけるようになりましたが、そこでも住宅と同じようにテリトリーの問題が重要であると実感しています。住宅と公共建築といった建築の種類においてもそうですが、規模のレベルにおいても、材料のレベルにおいても、空間のレベルにおいても、都市や環境といったレベルにおいても、テリトリーという問題は語ることができるのです。

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