アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
ハノーバー万博日本館の仕事で忙しい最中の1999年、トルコで地震がありました。ドイツからトルコヘは安い飛行機がずいぶんあり、週末毎にハノーバーから現地ヘイスタンブール経由で通っていました。
まず、日本の建設現場で使うシートを海外建設協会を通しゼネコンから集めました。神戸やルワンダの体験上、緊急時には、こうしたシートがとても役に立つことがわかっていたからです。予想どおり、キャンプではトルコの軍の古くて防水性能がほとんどないテントが使われていたため、われわれが持っていったシートが非常に役に立ちました。あえてゼネコンには、会社の名前やロゴが入っているものにして下さいとお願いしました。というのもCNNが撮影に来て、その映像が世界中に流れれば、日本のゼネコンの名前が世界中に売れるからです。墓金の経験がある人は多いと思いますが、自分が募金したお金がどこで何に使われたかということは知ることができません。ところがたかがシートでも、自分の寄付が新聞やニュースに出て上手く使われていることがわかると、継続的に支援をしてくれるようになるのです。ですから募金や寄付の結果をきちんと報告し、その活動をPRすることは支援を続ける上で非常に重要なことなのです。
そしてシートを手配したときに知り合った地元のNGOや建築家から、トルコの厳しい冬に備えて、神戸でつくったような仮設住宅を建設してほしいと頼まれました。地元の紙管メーカーとビール会社がすべての紙管と基礎用のビールケースを寄付してくれました。ただ神戸よりもずっと寒いところですので、地元の子どもたちの協力の下、紙屑を紙管の中に入れて断熱性能を高めました。
2001年1月にインド西部でも大震災がありました。最近は、世界のどこかで災害があると、すぐにファックスやEメールがきて、すぐ来てくれといわれます。インドの震災の際にはまずボンベイに入り、全人口の四割の人びとが家がないことを知り、神戸でつくったような紙のログハウスは恒久的なものになってしまいかねなく、仮設住宅と恒久住宅の違いは何かについてとても悩みました。。
インドは繊維産業が盛んですから紙管は簡単に手に入ります。しかしビールケースがなかなかありません。震源地とみられているブシュはガンジーさんの出身地であるポルバンダルに近く、昔お酒を飲まないためビールケースがなかったのです。コカコーラのケースで代用しようという意見もあったのですが、あまりアメリカのイメージの強いものではなく、なるべくローカルでヴァナキュラーなものにしたいと思い、崩れた建物の瓦礫を床に敷いて上に土を盛り、インドの伝統的な土間をつくり、これを基礎にしました。また、この土地は藁で編むマットの生産が盛んなのですが、屋根にはこのマットを二重にして使っています。
鷹取教会の建物は阪神・淡路大震災によって崩壊し、その後は屋外でたき火を囲んでミサを行っていました。
の光景を見て、僕はこの教会のために働きたいと思うようになりました。紙で教会を建て直しましょう、と神父さんにいったところ、返ってきた返事は、そんなもの要らないよ、でした。神父さんは、教会の建物が建っていたときよりもみんなの心がひとつにつながった、建物がなくなってはじめて本当の教会になった、というのです。しかし、諦めずに毎週通って信者のみなさんと仲良くなるうちに、神父さんは、自分でお金を集めて建設もボランティアでできるなら教会を建てようとおっしやってくれました。また、建てるのであれば、チャペルはいらないけれども、近隣の人も集まることのできるコミュニティホールが欲しいといわれました。それで設計と募金活動、そしてボランティアの学生集めを始めたのです。夏の間5週間かけて仮設住宅とコミュニティーホール(紙の教会)をつくりました。外壁の材料はすべてタキロンから寄付してもらいました壁もみんなでつくっています。
1995年9月17目、震災からちょうど8力月後、竣工後はじめてミサが屋内で行われました。神父さんから、キリスト教のシンボルやイコンは置かないで欲しいといわれたので、そういったものは一切置いていません。ただ今までの教会の空間体験を表現しようと、10メートル×15メートルの長方形のプランの中に紙管で楕円形の空間のレイヤーをつくりました。ローマにあるボロミーニの教会の楕円を使っています。開口部のある側から壁側に向かって、紙管と紙管の間隔を徐々に狭めています。これにより回廊とホール空間のヒエラルキーをつくることができました。
最初にもお話ししましたように、われわれ建築家というのは特権階級のために仕事をしてきました。王様ですとが貴族、あるいは宗教的に権威のある人など特権階級の人たちに対して建築家は仕事をしてきました。今でもそうした建築家の役割は当然あります。それが決して悪いことだとはいいません。われわれ建築家は常にモニュメントをつくりたがります。僕も決して例外ではなく、モニュメントをつくりたいという気持ちはあります。でもこの教会をつくって感じたことは、仮設のつもりでつくっても、多くの人に愛される建築であれば、恒久的な建築となり、さらにモニュメントとなるのです。震災後6年経って、もはやこの教会はまちのシンボルです。その意味で、人々に愛されるモニュメントをつくっていきたいと考えています。