アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
ぼくは歴史をやっていた関係で世界中のいろんなものを見てきているわけですけど、その中で自分がしみじみいいと思ったものがいくつかあります。例えば、チベットのラサにあるポタラ宮です。海抜四干メートルの盆地の中の小山の上に立っています。これを見たとき、今でもあれは神様がつくったのではないかと思っています。
しかし、今回紹介するのはこの宮殿ではありません。これから紹介する三つの建築は、おそらく日本人として、ぼくがいちばん最初に見たのではないかと思うものの中で特に心に残った建築です。自分もこういうことをやってみたいと思ってます。
ひとつは、今から三百年ほど前にイギリスでつくられた建物です。農地をもっている豪農の屋敷です。その屋敷には丘があってその丘の上に立っているオークの樹上にちっちやな家がつくられているんです。
これが実は樹上につくられた住宅としては最も古いということがわかっています。デザイン的にはチューダー様式です。用途としてはこの豪農が自分の農地を見晴らすためにつくられました。
年代の根拠がはっきりしているのは、エリザベスー世が十四歳のときにここへきて、樹上の家から周囲を見渡したということが一部の人たちの間では知られているからです。ぼく自身は、樹上の家に興味があって見に行きました。
建物の乗っているオークの樹は風でかなり痛んでいたので、つっかえ棒でかろうじて支えられていますが、旧状をよく留めています。どこがいいのか指摘しづらいですけれど、樹上の家が何ともいえず美しいんです。窓の上がゴシックになっています。中にはテーブルが一個あって、イスがふたつありましたが、四人座れるくらいの広さです。おそらくここでお茶を飲みながら自分の領地を眺めて、ひとときを過ごしたのではないかと思います。
ふたつ目は、フランスのセーヌ川の下流にある教会です。
今から四百年ぐらい前からあるんですが、教会といってもみなさんがイメージするような普通の建物ではありません。これも先ほどの樹上の家と同様にオークの樹です。このオークの一部に穴があいているんです。篤いたのは、その樹の中に教会があるということです
外国の本を読んでいたとき、フランスの田舎に、樹上のチャペルがあると書いてあったのですが、写真は載っていませんでした。そこで、フランス人の方に調べてもらいました。そうしたらパリから車で一時間くらいですが、アルビルという村にあるらしいというのがわかりました。
それで行ってみたんですけど、ぼくがよくわからなかったのは、樹の中にチャペルがあるという意味です。それともうひとつは、四百年くらい前にすでにここにマリアさんが祀られていたことがわかっています。今、村ではオークの樹が老齢化していますから、割り板、つまりシングルを張って保存しているわけです。
もし、日本人がこのような樹の祠に神さまがいると思ったら、シメナワを張って外で拝むわけですが、向こうの人はそうは考えませんので、チャペルですから人が中に入るわけです。その通りでした。ドアが付いているんです。そのドアは半身でないと入れないんです。ぼくは試しに入ってみました。
中に入って立ち上がると、触れるくらいの目の前にマリアさんがいて、向こうの人の根性に驚いたんですが、ちやんとチャペルにしているんです。畳一枚くらいのもので、茶室よりずっと小さいんですが、天井まで張ってありました。
日本だと古い木を神さまとして崇めるのはごく日常的ですけれど、向こうではキリスト教が自然信仰を禁じていましたから、直接、木を崇めることはないのです。おそらくキリスト教以前の信仰が何らかのかたちで残っていたために、この中には神さまがいるのではないかと思います。とにかく、樹の中に教会をつくっているということが、ぼくとしては気に入っています。
次に三つ目ですけど、この三つ目こそ世界の建築界ではぼくが最初に見たのではないかと思っています。どんな記録にも載っていませんからね。たいへん感動しました。
ポルトガルヘ行ったとき、ぼくの研究室の留学生の西山マルヤーロ氏が、地元の写真屋のおじさんが霧の中で面白い建物の写真を撮っているといったので、それを見せてもらったら岩石の家だったんです。ぼくは興味をもって、それを見るためにポルトガル北部のポートという町へ西山氏と行きました。
実は、その岩石の家にたどり着くまでがたいへんでした。タクシーの運転手に山の上に岩石の家がないか、と尋ねました。それでもなかなかわからなかったのですが、1〜2時間ウロウロしているうちに見つけました。ポルトガル北部でスペインの国境に向かった方角です。岩山といいますか、高い丘があってそこに岩がごろごろしていて、最初、どれが家かわからなかったのですが、じっと見ているとわかってきました。
孫悟空が飛んできそうな景色の中に建っている建築はすごくいいと思ってるわけです。建築の表現としては、最小限のものしかないです。入口と煙突、煙突があるのはここで人が暮らせることを示しているわけです。ちょうど自然の中に上手く溶け込んでいるけれども自然そのものではないのです。人間がこういうものをつくっている。それがすごくいい感じなんです。
これを見たとき、コルビュジエの「ロンシャンの教会」を思い出して、コルビュジエのお父さんがつくつたのではないかと思つたくらいすばらしかった。ぼく自身は、こういうものを建築の原理として現代建築の中でつくってみたいと思っています。
反対側の窓を見たとき、「ロンシャンの教会」ととても似ていました。中を覗いたら、ベットが置いてあって、カマドがあって、水をどうやって都合しているのかわかりませんが、おそらく芸術家のような職業の人が車でやって来て夏のシーズンを過ごしているのではないかと思いました。