アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
宮脇新宮さんと僕は年齢は一つ違いで、僕のほうが先輩で、同じ東京芸術大学を出ています。僕は1959年卒業、新宮さんは1960年の卒業です。彼は卒業後、イタリアに行き、イタリアと日本で油絵をやっていたんでしたね。たしか元々は油絵科出身の絵描きさんですよね。
新宮そうです、元は絵描きです。絵描きではうまくいかないんで、宗旨替えをしたわけです。
宮脇落伍した絵描きというわけですね。
あなたが初めて作品に動きを取り入れたのは、イタリアでキャンバスに描いた絵を木から吊ったら、絵が動いたことがヒントになったということですが、本当ですか。
新宮まあ、そのようなことですが、少し違います。どちらかというと、あまり絵がうまくいかないから、形を切り抜いたようなキャンバスをいろいろつくっていたんです。そうするとそれがちょっとレリーフ状になったり、あるいは立体絵画のようなものになったりしていました。あるとき、それを写真に撮ろうと思って外に持ち出したら、風で動いてしまってなかなかうまく撮れない。しかし、ジーッと見ているとなかなか面白いわけです。そこで、形とかなにか簡単なメカニズムを与えるだけで、うまく風をだませるというか、コントロールできるんじゃないかと考えたことがきっかけになっています。
宮脇動く彫刻といえば、アレキサンダー・カルダーがいますね。たしか、そのカルダーは1959年頃に芸大にきたことがあります。伊東隆道がカルダーからそのときに作品集を1冊もらって、それを彼は宝物として大事にもっていたんです。僕が大学院の2年生で処女作を設計したときに「宮脇さん、お願いだから僕にもなにかつくらせてよ」といってきて、カルダーそっくりの作品を僕の建物のインテリアにつくってくれたんです。それが伊東隆道の処女作のはずです。
伊東隆道がその後、ある時期からモーターを使った回る彫刻を始めますね。その後、日本中に回る彫刻が氾濫し、少し前に宇部の野外彫刻展にいってみたら、そこにある作品の過半数がなんらかの動く彫刻であったというくらいになっています。ところが、この伊東隆道の作品と新宮さんの作品は全く違うものなんですね。
新宮カルダーが日本にきたということも全く知りませんでした。
宮脇お二人の作品が全く違うというのは、つまり伊東隆道のはモーターで回しますが、新宮さんの作品にはモーターは使いませんね。
新宮まあ、間接的にモーターを使って水で動く彫刻などはありますが、基本的には自然の力を応用しています。
私はイタリアに1960年から1966年まで滞在していました。その間、イタリアにいても世界の美術界の動きや日本の美術界の動きなんていうのはよくわからないわけです。日本から、たまに雑誌が届いたりしてびっくりするというような状況でした。
宮脇自分の国だけじゃなくて、世界中の情報をよく知っているのは、今の所、日本がいちばんですね。
新宮どちらかというと、その当時の現代美術の洗礼を私は全然受けていないんです。芸大では小磯良平のクラスでしたから、具象の真面目な絵を描いておりました。ですから、イタリアヘ行って美術学校に入ったのも油絵で、それも具象のたいへん頑固な先生につきました。だからこそ、逆にそこから離れていったということもあります。イタリアヘは、本当は初期ルネッサンス時代の、フレスコ画やモザイクなどを勉強しようと思って行きました。
宮脇たしか政府の給費留学生でしたね。
新宮イタリア政府の給費留学生です。それで、イタリアに行って、現代美術はわからないままに、古いものにはたいへん感動して、結局、別の方向に進んでいったということでしょうか。
宮脇僕があなたに初めて会ったのは、学生時代を除けば1968年ですね。
新宮学生時代から知っていましたよ。上級生にすごいのがいるなと思って、大学の食堂なんかでよく見ていましたからね。
宮脇まあ、それは別にして、1968年というのは大阪万博の作業の真っ最中ですよね。その大阪万博のときに、丹下健三先生以下の偉い建築家の方々は施設の主要なものを設計されて、私や原広司、曽根幸一、GKなどは、残りのくずというか、細かい案内所とか消防車の車庫とかモノレールの駅とかを担当したんです。そして最後にサブ広場を七つやりました。この七つの広場に前衛の彫刻作品を置こうということになって、中原佑介さんの推薦などもあり、そり内の1つに、当時イタリアから帰国したばかりの新進気鋭の彫刻家だった新宮さんに依頼することになり、大阪の造船所にあった制作工場を訪ねて作品を見ながら話したのが最初でしたね。
万博のときの作品はなんていいましたっけ。
新宮「フローティング・サウンド」と「太陽と友だち」です。
宮脇そうでした。あの頃といまは、作風が少し変わりましたね。
新宮当時は、どちらかというと、なにかびっくりするような要素があればよかったという時代でした。世の中がふわふわした感じでしたから、そういうものが受け入れられたわけです。
宮脇福島敬恭という作家は、私の担当した大阪万博の金曜広場に原色の板を並べた作品をつくり、それがその後、私の「秋田相互銀行盛岡支店」の黄色い箱に発展していくんです。たしか新宮さんも当時は赤や青や黄色という原色を派手に使っていたように思いますが・・・
新宮なにしろイタリア帰りをそれらしく見せなきゃなりませんでしたから、当時は日本的でない色が多かったかも知れません。
宮脇ところが、最近の作品を見ると、色ははとんどなくなって細い線だけの構成で、スチール写真で見ると、この作品のどこがいいの?という感じがありますね。初期の作品はスチール写真でもそれなりに「アッ、これが新宮さんの作品か」という感じがありましたけれどね。
新宮うまく歳をとるのはなかなかむずしいですね。ただ初期の頃は、他の人の作品と比べるとか、展覧会なども多かったので、基本的になんでも他とのコンペティションなんですね。