アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
宮脇そろそろ話を核心にもっていきます。伊東隆道の話はこれで最後にしますが、彼は立体造形作家と自称しています。ところが新宮さんは立体造形作家と呼ばれることを断固として拒否している。絵描きじゃなくて、彫刻家じゃなくて、立体作家でもなくて、地球を見てつくっているというような、そんな姿勢が伊東隆道とあなたの最大の違いだろうと思います。要するに新宮さんは彫刻をつくっているんではなくて、空気が流れていることを皆んなに教えるために、ある装置をつくり続けている人だと思います。風が流れているよ、といい続けている。
新宮そうです、そういうことです。
宮脇NECの本社ビルは大きな風穴が開いていて、そこを風が通り抜けているけれど、だれもそんなこと知らないというか、実感できないものね。あそこに新宮さんの作品を置いて、ものすごい風が抜けてるのを見せたいと思いますねェ。
「風水説」というのがあって風と水と火がありますが、新宮さんはなぜ風なんでしょう。水を取り入れた作品もあるけれど、私はあなたの作品の中で水を使ったのはあまり好きじゃない。水を上から落としてみたり、それで回してみたりという、あれは操作した水がなにかを動かしているな、という感じがありすぎるけれど、風は新宮晋が全然操作しないからこそ、風の作品を私は好きなんだけど、なぜ風がメインなんだろう。風を愛する新宮晋論をちょっとやってみて下さい。
新宮風というのは、すぐ傍の空気の移動ですから、水よりも人間にもっと身近なものです。本来ならば、もっともっとわかっていいはずなのに、水のように目に見えないから、つかめない。しかし、風が頬に当たれば感じることができる。そういう意味では風で動くものを見ているときに、自分がいま感じているこの風であれが動いているんだなと感じる、共通の認識のようなものが生まれるんですね。
宮脇造形物とそれを見ている人の間のつながりが、風を介してサッと生まれるということですね。
新宮水はちょっと距離があるというのは、そこに起由しているように思います。
いま私はレンゾ・ピアノと仕事をしているんですが、彼が関西新空港のコンペを勝ち取ったときに、会いたいということですぐ電話がかかってきたんです。それで会って話をすると「今度の新空港の建物は、外風と室内の空調などによる風を考慮して屋根のカーブを決定した、自分としてはたいへん自信のあるデザインの建物なんだが、生憎と室内の風の動きや空気の流れが人に見えないから、なんとか見えるようにしてくれ」ということでした。ピアノは、建築雑誌に私の作品が発表される毎に、私のほうはそんなことちっとも知らなかったんですが、その情報をイタリアで見ていたらしいんです。それで、私は他の人よりも空気がよく見える人間であるということで、あれもこれもと頼まれて目下やっております。
そういう見方もあるんだなと、ピアノとのことで逆に自分を見直しました。それまではどちらかというと、オブジェとして完結している彫刻のような依頼が多かったんです。
宮脇僕は最近は都市計画の仕事が多いんですが、都市計画というのは建築をつくるというより、風景をつくる仕事なんですね。数百戸の住宅を並べて山を削ったりしてランドスケープを施して、風買をつくっているわけです。
風景というのは風と景という2つの字からできています。この風というのはアトモスフェアでありウインズでありスタイルでもあるわけです。なになに風というスタイルですね。いわば目に見えないもの、雰節気のようなもの、その辺りに満ち満ちているソフト、環境のようなものを風といっている。そして景という字は、日に京ですから、この字は都市とか建物の影を表している。ですから、影ということはなにか実体があって初めて存在する、ハードが存在するわけです。そこで、ソフトとハードを一緒にしたものが風景だとだれかが書いていたように思います。
新宮さんの作品はまさに風景なんだろうと思います。風があって買に当たるモノがあって、風と影、見えるモノと見えないモノが実体化して、あるイメージを私たちに伝えてくれるんだという意味で、たいへん意義のある感じがいつもしています。
新宮私はオブジェとして人間がつくったという感じのあるものをつくるのでなく、ミニマムにすれば、風というのはどこからかやってきてどこかに行ってしまうものですから、その中に溶けるようなもの、ミニマムだけれどもたいへん大きくもなれるもの、そういう可能性のあるものと考えています。歳とともにだんだんずるくなってきているのかも知れませんが、ミニマムなものをつくっていきたいと思います。
宮脇最近の作品は本当にそんな気がしますね。紗みたいな布だったり、くもの巣みたいなのとか、棒のようなのとか、最後にはどこに行き着くんでしょう。
「ウインドサーカス」というのは、バルセロナからフィンランドでしたか、世界中を同じ作品をもっていって展示しましたね。フィンランドとバルセロナでは風が違いましたか。つまり、同じ作品でも場所によって動きが違うということもあるんでしょうか。
新宮当然、場所によっても違いますし、季節も違っていましたからね。しかし、このヨーロッパ巡回展では、そこにいる人の違いがいちばん大きかったと思います。特にフィンランドの人たちというのは、私たちには考えられないぐらいに散歩が好きなんです。
少々寒い中でも散歩をします。いつも、木や空や鳥や動物やらを観察しながら散歩をしているんです。そこに「ウインドサーカス」があると、皆んな寄ってきて見てくださる。結局、催しとしていちばん成功したと思うのは、わずか人口数万人の街で、そのほとんどすべての人々が見にきてくださったように思います。この辺は他に娯楽があまりないということもあるでしょうけれど、それに1人で10回見にきたという人もいましたけれどね。
この「ウインドサーカス」のヨーロッパ巡回展は、それこそサーカスという名前そのままの感じのものです。私にとってサーカスというのは、風なんです。地球上を吹きまくっている風が、ヨーロッパで会った風も日本で会った風も同じであったかもしれないというように、地球上を風が吹きまくっているとすれば、作品が展開するということにもその意味が込められるだろうという展覧会でした。作品を展示して、そこに永久的に置くのでなく、一定期間の後に取り除きます。そのときに、残像としてそこに作品があった印象が残るというのも、またサーカスなんです。ですから、ある意味では巡回展は引き上げるのがコツなんです。「もうおしまいなの、1つぐらい置いていってくれればいいのに、と皆んなに思われつつ、そこからいなくなるというのがミソです。
宮脇皆んなは1度風が見えたのに、また風が見えなくなるわけですね。
新宮そうすると、そこに作品があったときの存在感が「ほら、あっただろう」という感じとして残るんです。
宮脇私たちもいろいろ風を頼りに設計をします。つまり東南アジアは特にそうなんですが、風は雨を運んできて、雨が温暖にして湿潤なる生命力のあふるる土地をつくり出しているわけですね。風というのは、実にうれしい存在です。バリ島なんかでのんびりと風に当たっていると、なにもしなくても最高の幸せという気分になります。しかし、高山に登ると風速1メートル増す毎に体感温度が1度下がりますから、風が強ければ強いほど死に近づくことになるほど、風はこわい存在でもある。
これをもう少し建築的にいえば、関東は南南東から風が吹きます。ですから関東では東の壁に窓を開けると夏、風が入ってきて涼しい。関西では南南西の風ですから、西の壁に窓を開けると夕方の涼しい風が吹くんです。関東で西に窓を開けると西日が入るだけで暑いばっかりです。新幹線で東京から大阪のほうへ行きますと、最近は敷地が南北に長くしかとれないような場合でもマンションが建つことになるんですが、その南北に長いマンションが、関東では東向きに窓が開いているのですが、よく見ると関西のマンションは西向きに窓が開いています。そうした光景を目にしますと、やはりだれでも風を読んでいるんだな、という気がします。日本もやはり東南アジアの1部だということがわかります。
そういう風というものを、その地方地方で皆んな読んでいるはずなのに、私たちがオフィスビルを設計しようとすると、設備設計の人たちからは、風を入れるなといって叱られるんです。全部締め切って何立米の空気があって、外気温が何度で室内の温度を何度にするにはどれぐらいの熱量のエネルギーが必要というのが設備系の考え方なんですね。
話を元に戻すと、新宮さんの作品では、風が正面から吹く場合と、回ったり横から吹いたりする場合と全部違うと思うけれど、そういう計算はどうしてるんですか。それにそんな計算ができるんですか。
新宮本来ならば、風で動くものは風の力を避けるというか、逃げ方が動きになっているわけです。ところが、いまのお話のような構造計算ということになると、建築を審査するのと同じような考え方でしか審査されないんですね。ですから、ベアリングで動く場合に、そのベアリングが壊れてロックしてしまい、それも最悪の状態でロックしたときに柱が曲がらないか、折れてしまわないかということが構造計算の基準になるんです。
宮脇さきはどのビデオに出てきたいろいろな作品の架台なんか、本当はもっと細くてもいいものがいっぱいあるでしょうね。その辺は新宮さんとしては、それほどこだわらないんでしょうか。
新宮6メートル以上のものになると工作物の申請が必要なんです。構造計算上は建築物と同じ扱いになります。それに、日本の計算と海外の計算がまた違っているんです。いまピーター・ライスという構造家ともよく一緒に仕事をしているんですが、彼の話によると「俺が計算すれば半分で済むはずだ」といいますね。ところが日本ではそうはいかないんです。
宮脇そういう意味では、私たちの技術はきわめて低いレベルにしかないですね。ですから、さきほどのあなたのクモの巣の話じゃないけれど、「まだまだ私たちの地球上には知らないものがいっぱいあって、やっと私たちはそれにとりかかったところだ」とビデオであなたもいってたけれど、その通りですね。風の動きを見ているだけでも、地球上の空気の動き1つとり上げても、まだまだ知らないことがたくさんある。
あなたの作品を見ていて、ポケーツとして、しみじみ見てしまうのは、そのせいでしょうね。
新宮そう感じてもらえると、うれしいですね。