アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
いま「他の様式の建築には見られない」というい方の中で様式という言葉を使いましたが、では数寄屋とは建築の一つの様式なのだろうかと考えると、本当にそうかな?と疑問に思うこともあります。建築に携わる人間に限らず、誰でも数寄屋という言葉を聞くと、ある程度のイメージを思い浮かべることができます。特に今日この会場にいらっしゃってる建築関係の方々にとっては、数寄屋という言葉から、その建築空間のもっている特徴であるとか、独特のディテールや用語など、いろいろ思い浮かべることができると思います。しかし、数寄屋建築の基本的な構成や全体像ということになると、社寺建築の場合のような、何かきちっとしたスタイルやシステムを思い浮かべることはできない、やはり、どうも様式というほどのきっちりしたものはないようです。数寄屋とは、かなり漠然としたもの、建築的な様式というよりはイメージとしての様式とでも呼んだほうがふさわしいもののようです。
このあたりにも数寄屋の生命力の秘密の一端が秘められているのかもしれません。全体的な構成や外観が千差万別であるということは、数寄屋というものが、基本的な構成やプランニングにおいて、きわめて自由な建築であったことを示しています。そうした定型性や様式性の希薄さが数寄屋のおもしろさなのですが、反面、他の様式的に体系立った建築に比較して、出来上がりに非常にばらつきがあった、高い完成度に到達した建築は少ないように思います。
なぜ数寄屋は定型化の度合いが少なかったか、ということを考えてみますと、一つには数寄屋を支えてきた美意識の影響があると思います。数寄屋の中には、日本の他の分野の芸術においてはしばしば見られる独特の美意識が見え隠れします。非対称なものや、アンバランスなものに美を見出す、不整形なもの、いびつなものにも美を見出す、また余白とか未完成の分野にまでも美を予感するような美意識です。最も日本的な感性が色濃く反映された建築、というのが数寄屋の大きな特色であろうと思います。
江戸時代初期、この時代はその前の時代から引き継いだ豪華な書院建築とか、数寄屋の対極にあるものとして引き合いにだされる日光の東照宮などがつくられた時代です。同時に、もう一方では桂離宮や修学院離宮などがつくられています。これを武家と貴族の文化の違い、あるいは江戸幕府と朝廷の対立が建築のデザインに反映したと見ることもできましょう。 いずれにしても、この時代の人々のデザインの幅の広さ、豊かさ、そしてレベルの高さには感心させられます。
この時代は、数寄屋でも、それ以外の分野でも高いレベルのものがたくさんできています。では、それらの中で何が生き残り、何が現代まで引き継がれているか、という面で、考えると、それは数寄屋ではないかと私には思えます。数寄屋は当初は貴族、茶人、上層武士階級によってつくられたとはいえ、そのデザインはすぐに市民レベルの多くの人々に愛好されるようになります。それは数寄屋の構成要素が、一見非常に平易に見えるというところに理由があると思います。誰にでもできそうなデザインに見えるし、スケールも親しみやすい、全く素人の手に負えないスケールとか、高度な技術や知識を必要とするデザインには見えません、そしてなにより感覚的に日本人の生活に受け入れやすいものであったということです。それはとりもなおさず、数寄屋の力でもあったわけです。
さらにいえば、江戸時代が豊かな町人文化の時代でもあったことも影響していると思います。この時代の人々の建築についての関心のあり方を示す一例として「座敷雛形」(ざしきひいながた)というものに触れてみたいと思います。雛形というと普通、江戸時代の呉服屋の、居間でいうスタイルブックのようなものを重い浮かべます。座敷雛形というのはその建築版で、座敷のデザインに関するものを収録したものです。もちろん「匠明」のように体系的なものではありません。それぞれに建具雛形とか、床の間・書院雛形などと称して、要するに障子や、欄間のデザイン、違い棚のデザインなどが数多く収録されているものです。このような本は、江戸時代の中頃から明治の中頃まで出版されています。それだけ需要もあり、人々の関心も多かったからでありましょう。数寄屋の存在がそんな現象に大きな影響を与えたであろうことは、容易に想像がつきます。
数寄屋はこのように、細部については昔からいろいろ手掛かりや実例などで説明しやすい建築ですが、全体像は漠然としているというか、自由自在な建築でした。数寄屋は、一見素朴に見えながら、多面的な内容の美意識に支えられ、その生い立ちから風雨流の世界のものであり、日常生活から一歩距離をおいた建築でありながら、多くの人々にアッピールするものをもっていたのです。もっと端的にいうならば、かなり高次元の美意識と通俗的なものを併せもった建築であるということです。そこに、数寄屋の生命力の源があるのではないかと思います。