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東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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原 広司 - 建築の可能性
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東西アスファルト事業協同組合講演会

建築の可能性

原 広司HIROSHI HARA


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はじめに

「建築の可能性」と題して音楽を伴ったレクチャーをいたします。ふたりの出演者・高橋鮎生さんと上野洋子さんは、私の建築の理念の追い方とある意味で非常に共通したところがあります。その共通点の上に立ち、パフォーマンスとまではいかないかもしれませんが、普通の講演会にはないようなかたちを実現したいと思っています。先日、高橋さんから「古代の楽器を集めている」と聞き、それはわれわれと共通するところがあるということから今日のレクチャーのやり方が決まりました。

登場する楽器には、ケルティック・ハープ、プサルテリー、ブズーキーなどがあります。ケルティック・ハープは発生的にいうとメソポタミアから出て、西アジア、ケルトに広がっていった楽器だそうです。また、中世ヨーロッパの楽器であるプサルテリー、ブズーキーと呼ばれるオリエント、ギリシャに分布していた楽器やボーラムというアイルランドあたりの楽器、それから十二弦ギターなどです。

私の建築の背景には世界の集落の調査があり、それは人間の住んでいた環境の根元を知るひとつの行為であります。もちろん、現存する集落の形態は中世あたりが非常に多いのですが、場所によってはご専念以上その形態をとどめている集落もありますから、住むこと、生きることの原型を見ることができます。

私は集落の研究者でもありますが、それと同時に現代の建築の設計者です。高橋さんも古代の楽器を研究して、現代の作曲家および演奏家として活躍されており、伝統そのものを生かそうということだけではなく、現代に耐えうる作品をつくろうと考えているのです。

今日演奏される曲目は、一曲を除き高橋さん自身の作曲によるもので、今日のために作曲してくれた曲などラディカル〈根源的〉なものを比較的忠実に表現しているものが多いのではないかと推測しますが、私のレクチャーと平行して行われる演奏を渡し自身楽しみにしています。

「現代的であること」と、「建築と音楽」について要約してみたいと思います。

民族主義的音楽はロマン主義の時代にすでにありました。さらに遡ればバッハなどが出てくる音楽の源流も、ひとつのヨーロッパ的な音楽の伝統に属しているものの特殊な形態であることが、今日になってわかってきたわけです。

チャイコフスキー周辺の民族音楽があり、そして二十世紀に入ってきて、ストラビンスキーが新古典主義と呼ばれる音楽を展開します。また、一方では、民謡を収集したことで知られているバルトークが古典主義的、あるいは民族主義的なものを持ちながら、しかも新しい音楽をつくったことはみなさんもご承知のとおりです。そうした流れの中で、ヨーロッパ自体がヨーロッパ音楽の反省をするとともに、アジアに目を向けることが盛んに行われる。そして、アジア音楽の研究よりジョン・ケージが刺激を受けてさまざまな音楽的革命を行ったり、メシアンが東洋的なメロディーを入れて作曲したり、というようなことが起こります。 今、私はたいへん短い音楽史を話しましたが、伝統的あるいは民族的なものは、ノスタルジックにではなく、音楽の根源的なものを探していくというかたちで、今日も生き続いています。源を探れば探るほど音楽の多様性が出てきます。その展開と意味は、現代の音楽そのものに多大な影響を与えています。ちょうど建築でいえば集落に対応します。つまり、集落が今日現代建築に与えているものと同じような意味が、音楽にもなされていることを指摘したかったのです。

さて、今日のテーマである。「建築の可能性」ですが、これは〈様相〉と〈モダニティ〉について私が考えてきて自分の中で整理されてきました。いってみれば、時間を建築の中に入れていくことであります。時間に関しては、すでに20世紀冒頭でかなり意識されています。

アインシュタインが「場所の観測によって、同じものでもそれぞれ見え方が違う」と指摘してから海外においてキュビズムが出てきました。「観測位置の問題」があるということ。そして、人間が動いていくとその移動に従って空間が変化することを計画論理に入れなくてはならないのではないか、とギーディオンが指摘したのです。

しかしながら、その時間の論理が、途中で消失する体であった。近代建築の帰結として均質空間があげられます。均質空間とは、超高層ビルに現れているとおり、一定の温度を持ち、一定の明るさを持ち、一定の音のレベルを持ち、一定の風の方向を持つというように、あらゆる部分が均質である建築です。この〈均質性〉が、時間を超えた建築の理念としてひとつ出されたのです。これは、私が繰り返し述べていることなのでここで改めて説明するまでもないのですが、この均質性によりわれわれは建築の時間的変化を忘れてしまったのではないかと思うのです。

〈様相〉という概念は、歴史的に見るとふたつの意味があります。ひとつは〈状態〉に近いことばです。もうひとつは、論理学的なことばでさまざまな〈可能性〉〈必然性〉といったものを述べるその論理形式として使います。例えば、様相論理学のような今日の論理学の呼び方における様相ということばの使い方は、未来の可能性の形式の相対を指しています。したがって、本質的に時間的要素をその中に持っています。つまり、建築は次の瞬間どうなるかということ、変わりつつある状態を指すのだと統合的に考えることができると思います。そういう建築がわれわれのまわりから消えつつあるのです。

昨日、大学で二十世紀の映画の話をしました。「映画は音楽につきる」とはエイゼンシュタインがいったことばです。かれは新しいリズムが出てきたストラビンスキーの時代の人です。「映画はリズムのモンタージュである」という言い方もしています。画面の構成はリズムのモンタージュであると。時間を検討して本格的に設計に取り入れようと覚悟したのは、つい最近のことではあるのですが、時間を改めて建築の中に挿入していくこと、要するに、もっと本格的に建築の論理に時間の変化を入れていく可能性があるのではないかと感じています。

時間とともに変化する建築、それは伝統的な建築に見ることができます。日本の建築はだいたいそうですが、わかりやすい例としてサバンナの集落があげられます。雨季になると集落の周囲が作物によって埋まります。逆に乾季にはそれがなくなり広場ができます。その雨季と乾季を使って集落はつくられています。メキシコの集落のメスカルティタンのように雨季になって増水してくると道が運河に変わり、乾季には道に戻るという自然の変化との対応でできた建築が実際にあります。

ゲーテは「建築は凍れる音楽である」と比喩的にいっていますが、そうではなく、「建築は生きた音楽である」といえるのかもしれません。建築の新たな可能性をわれわれが時間にそって設計していくことにより、予想される状態を予告できる建築ができるかもしれません。すると、今日のレクチャーに象徴されるように音楽と建築の近親性をもっと本格的に研究していったとき、新たな建築的構想、あるいは建築的傾向の展開が現れるのではないかと思うのです。

これから三部構成で進めていきたいと思います。最初に、私の初期の作品を時間という観点からもう一度説明します。そして、さまざまな集落のスライドに基づいた高橋さんと上野さんの演奏を聴いていただきます。最後に、超高層ビル以降の計画や「五〇〇メートル立法」、「地球外建築」につて時間的にどういう意味をもっているか説明します。

(高橋氏の即興演奏をバックにスライドの説明が始まる。)

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