アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
ソフトについてですが、私の建築は、住宅で考えたように設計のプロセスの中にあると思います。住宅の設計で期限がある場合、その過程でとりあえず模型をつくっても、そのたびにくずしていくようなことが延々と続きますが、たとえ実現しないものでも、プロセスを通した中に建築があったと感じていました。私の考える建築は「コミュニケーションが開く建築」のシーンをもって建築だといっていたように思います。
そのことをヒントにして考えていったとき、「湘南台文化センター」のコンペの概要はたいへんよかったので、はじめてコンペに参加しました。それでも私には役所のプログラムを見直すような姿勢がどこかにあります。自分のつくったスケッチをもって、随分多くの人に語りかけてきました。そうした対話をしていくプロセスで、私なりのプログラムができてきたわけです。それによって建築家が建築をつくるときの原点に立ち戻ることもできるだろうと、そんな進め方で「湘南台文化センター」をやりました。市民がどういうものをつくり、何をしようとしていたかをよくのみ込んでいてこそ、結果的にはとてもよく使われる建築が生まれるのです。
ここでは、球儀の建築そのものがソフトといえるシアターをつくることになっていたことに気づくわけです。球儀がコンペでは最も大きな問題となりました。プロポーザルで磯崎新さんをはじめ審査員全員から、なぜ球儀の劇場なのかと質問されたのが印象的でした。600人から700人が入る中ホールですから、東京からくる劇をパッと上げていかなくてはならない機能が必要だったのです。そうしたとき、ほかの劇場と違うと、興行として成り立ちにくく運営できないではないか、というのが主だったことでした。市民とのディスカッションは、その球儀劇場からはじまりました。そのことは結果的に大きなことを残したと思います。球儀劇場の使い方をみんなで考えました。私は野外のような大きな空気をもっている劇場を実現させたいと思い、市民ホールをシビックセンターと改名すること、芸術監督を置くことを働きかけました。普通の劇場ではないので、どうなるのかみんなが心配していたとおもいます。
しかし完成と同時に多くの若い芸術家たちは、そこに挑戦してくれました。そして、市民はオペレッタを創作するなどすばらしいものがいくつか生まれました。ほかの劇場と勝手が違うため「湘南台版」と名付けて演じられるようになりました。
そのようにして、この劇場のための創作ものがたくさんでき、湘南台の劇場は、球儀の劇場という今までにないメッセージを発しています。年末の新聞で代表演劇五作品の中のひとつに選ばれたりするたびに、私は建築の賞をもらうよりずっとうれしい気分でした。建築のもっている形式そのものが、こんなに大きなプログラムになっていることを、湘南台の球儀劇場は私に気づかせてくれました。