アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
みなさんこんにちは、エドワード鈴木です。今日は「見える建築・見えない建築」というタイトルでお話しさせていただきます。なぜこういうタイトルかといいますと、現在、私の事務所でやっている仕事が大きくわけて両極端にこのふたつにあると思います。
見える建築というのは、通常いう“地上にそびえ立つような非常にモニュメンタルな、建築だけが発揮できる物体のパワーを現わすような、オブジェ的な彫刻的な建築”を僕は意味しています。
見えない建築というのは、これは完全に見えないわけではないんですが、比較的存在感を抑えて、あまり押し付けがましくなく、一生懸命バックアップサポーターとして、その器が囲む機能、アクティビティーを一生懸命支えてくれている、ある意味では空気みたいな、なくてはならないんですけれども普段はあまり意識しない、ある意味では見えない建築の美をひとつとして、今後追っていきたいと思っています。
僕は小さいときから、コントラストですとか相反するようなもの、矛盾、二重性、そういうことが好きで、ここ十年くらいの間アナーキテクチャーというテーマをひとつとして追ってきています。こては壊すようなモチーフを生かしつくっていく建築ですけれど、僕にとっては便利な言葉で、いろんなことを自分自身の中で説明させてくれる言葉です。 ひとつとしては自分の哲学の美の哲学なども意味している言葉なんですが、アナーキーとアーキテクチャーの造語です。ちょっと余談になるんですが、僕が大学の頃は、もちろんアーバンデザインを専攻していたのですが、どちらかというと人類学、心理学、社会学が好きで、そちらのほうの勉強を勝手にしていた時間が多いと思うんです。そんな中である日気づいたことは、われわれ人間という動物が非常に不思議な面白い存在だなということです。といいますのはわれわれ人間だけが、動物の世界では本当の意味で悪をもって憎んだり殺し合ったりするわけです。もちろん動物も殺し合いはしているのですが、動物の世界では社会的なニーズですとか本能的なサバイバルの必要性に応じて行動を起こしてますけれども、人間だけがまったくそういうことを必要としないのに憎み合ったり殺しあったりしてしまう。皮肉なことには人間だけが動物の世界で思想という力をもってクリエイトできる。そういうユニークな力をもつ立場に置かれているにもかかわらず、まったく逆なことをしている場合が多い。こういう非常に個人的な考えを自分の、ある意味では非個人的な仕事の上で何らかの形で生かしたら何か面白い建築ができるかなということが、アナーキテクチャーのそもそもの始まりです。