アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
建築は、形態やプログラム、あるいは構造、設備などさまざまな側面から語ることができます。しかし、建築は所詮、環境に対するシェルターにすぎないのではないか、という気持ちから生まれたのが「Sheltering Earth」という言葉で、この時期、この言葉を通して自分の建物のつくり方も説明できるのではないかと考えました。
「素形」という言葉がどちらかというと自分自身に対する問いだったのに対して、「Sheltering Earth」は他人に対して自分のやっていることをどのように説明するかという意味合いをもっています。この時期に設計したのが、「伊東・織りの家」「安曇野ちひろ美術館」「うしぶか海彩館」「十日町情報館」「金沢の家」「茨城県天心記念五浦美術館」といった作品です。
「安曇野ちひろ美術館」を設計する際にまず考えたことは、まわりの環境とどのようにうまく付き合うかということです。この計画は、長野県の松川村が4ヘクタールほどの公園をつくり、そこに美術館を誘致するというものでした。松川村という自治体と民間であるいわさきちひろ財団との共同作業ですが、それぞれを別の視点からつくるのではなく、全体をひとつの環境としてとらえようと、この計画は始まりました。
実はこの建物、最終的な屋根の形式に至るまでに、31個くらいの屋根の模型をつくって検討しています。片流れのときもありましたし、フラットルーフのときもありましたし、曲線のときもありました。いろいろな形を試した結果、このくらいのスケールの切り妻の屋根がこの公園のスケールやまわりの景観に合うのではないかという結論に至ったのです。
架構は7.2メートルスパンです。「海の博物館」のように柱のない20メートルもの巨大な空間をつくるのではなくて、細かなスパンを丁寧につくる方法を採用しました。「海の博物館」で集成材の建物をつくって以来、集成材の建物が世の中に増えてきて、猫も杓子も集成材を使うというような雰囲気があった時期でしたので、できるだけ集成材を使わずに、大工さんが普通に使うような木を使ってどこまでできるかということを試みました。ですから登り梁には集成材ではなく在来の木材を使い、かつ梁背を減らすため、屋根項部は剛接合としています。
ここには、初年度から年間30万人前後の来館者が詰めかけています。2001年の春に増築部分が完成し、展示室の面積は倍になりました。
「うしぶか海彩館」は、熊本アートポリスの作品です。八束はじめさんからお話しがあったとき、繰り返しいわれたのが「遠いけれどいいですか」ということです。「大丈夫です、遠い所には慣れています」といってお引き受けしたんですが、本当に遠いところでした。熊本空港から車をとばしても三峙間半、少し体むと四時間かかるところで、引き受ける前にちゃんと確認すればよかったと、あとで反省しました。
レンゾ・ピアノが設計した橋のたもとにつくった市場のような空間ですが、レンゾ・ピアノの橋が綺麗なので、邪魔をしないように、ざっくりとつくりました。建築が特異な形をすることで、橋がつくり出す大きなランドスケープを壊すのが嫌だったので、意図的にあまり形をつくり込まないようにしました。
この建物は、岡倉天心が芸術村をつくろうとした五浦(いづら)の約40メートルの崖の上に美術館を建てています。
ちひろ美術館のときに切妻の連続する形の魅力を感じていたので、できるだけその延長上でやることにしました。主構造はプレキャストコンクリートにポストテンションをかけたものです。一番大きい24メートルスパンのモジュールを基本に、それを利用しながら4、8、12、16の五種類の架構を用いて、それに伴う大ささの屋根形状を決めていきました。工期が非常に短かったので、現場打ちのコンクリートだと出来上がったあとにアルカリが出てしまい、展示物に悪いということでプレキャストコンクリートを使いました。
プロポーザルコンペでとった建物で、情報館といっても実際は図書館です。エレベーションがダサイ、重苦しいと、多くの方にいわれましたが、いい訳をすると、これはすべて積雪荷重に原因があります。最大4.5メートルにもなる積雪を背負わなくてはなりませんし、雪庇(せっぴ)といって多いときは屋根の上に2トンにもなる雪の固まりができます。そうした条件を踏まえた上で、できるだけメンテナンスのいらない建物にしようとしたがために、このような外観になりました。
雪に対する予測は、なかなが難しいものです。同じ屋根でも場所によって積もり方は異なり、偏荷重を起こしたりしますので、構造家の渡辺邦夫さんといろいろなケースを想定しながら検討を進めました。
機会がありましたら見て頂きたいのですが、ここに来るとコンクリートの授業ができます。屋根架構には、「海の博物館」の収蔵庫と同様のプレキャストコンクリートのポストテンション組立構法を用いました。これであれば、屋根の上に雪を載せたまま、大空間をつくることが可能です。この大きな屋根を受けるため柱頭部分は高強度コンクリート、柱の下の方は通常のコンクリートになっています。つまり、このひとつの建物で三種類の強度の違うコンクリートを見ることができるのです。
私の事務所では常時二軒ぐらい住宅の設計をするようにしています。これは半ば私の信条で、もちろん苦労していた時代に住宅をやらせて頂いて生き延ぴてきたということもありますが、基本的には建築は仕宅が一番難しいと今でも思っているからです。住宅こそは建築家が常に追求すべき究極のテーマです。
住宅というのは365日、人が住むところで、そこに一日中いる人だっています。そして、あらゆるディテールが自分から2メートルぐらいのところにあります。こんな難しいことはありません。例えば美術館なら、そこにいる時間は長くても三時間程度であって、その間に粗(あら)が見つからなければいいのです。反面、住宅は過ごす時間が長く、しかも暑い時期があれば寒い時期もあり、それらすべての条件に対応しなければなりません。また、一生懸命やっても、なかなか思ったようにはいきません。クライアントとの関わりも含めてとても難しいと感じます。たぶん建築家は、住宅の設計を手放した瞬間に駄目になるのではないかと思っています。住宅をやらなくなると、事務所を運営する上での効率はよくなりますし、肩の荷も半分くらい下りますが、今でもできるだけ住宅の仕事はやれる範囲で受けるようにしています。
「全沢の家」は三代続く陶芸一家の住まいです。この敷地に建っていた旧宅には、亡くなった陶芸家の中村梅山(ばいざん)さんが数十年がけてつくった素晴らしい茶室のような座敷がありました。これを解体保存して敷地の中央に置き、その左右に、次男の中村卓夫(たくお)さんと三男の中村康平(こうへい)さんの住まいをつくりました。座敷は東京在住の長男、中村錦平(きんぺい)さんが金沢に帰ってきたときの宿としても使われます。