アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
講演会の様子。両氏が座る椅子は藤江和子氏が手掛けたもの
藤森 本日の講演のテーマは「現代建築を語る」ですが、まず最初に私と伊東さんの子ども時代の話をします。その次に1970年代の建築について。これは伊東さんが作品をつくり始めた時期です。それから伊東さんは大きくデザインを変えるのですが、それが1980年代。そして2000年代には伊東さんの「せんだいメディアテーク(2000年)」ができる。この時期に私も設計を始めました。このように本日は現代のさまざまな建築について10年単位で年代順に追いながら語っていきたいと思っています。
伊東 私たちが今座っている椅子ですが、これは家具デザイナーの藤江和子さんの作品です。私が設計した川口市郊外に建つ「川口市めぐりの森(2018年)」市営火葬場の待合ホールのためにデザインしてくださったものです。今日はこの対談のために藤江さんが貸してくださいました。
また、最初にお伝えしておきたいのですが、私は去年の1月に脳幹梗塞で倒れ、去年は1度もレクチャーをせず新幹線にも乗らず、昨日、およそ1年半ぶりに飛行機に乗りました。まだ声がかすれているので、お聞き苦しいかもしれませんが、よろしくお願いします。
藤森 最初に子ども時代のことを話した方がいいなと思ったのは、私と伊東さんが同じ場所で育ったからです。伊東さんの方が5歳年上ですが、ふたりとも長野県の諏訪地域という独特な風土の場所で育ちました。諏訪地域は、東京からは中央自動車道とJR中央本線が繋がっていて、地域の北西部に諏訪湖があります。私の処女作や伊東さんのいくつかの作品もこの地域にあります。
伊東 私は生まれはソウルなのですが、2歳くらいで父親の田舎の下諏訪へ引っ越してきました。そのため、生まれた頃のことは全然記憶がなくて、私の記憶は下諏訪から始まります。
藤森 伊東さんのおじいさんは下諏訪町の町長をしておられて、地域のためにたいへん尽くされた名高い人でした。諏訪地域では御神渡りと言って氷結した諏訪湖の一部がせり上がり筋ができる現象が有名ですが、その筋は私がいた茅野市と、伊東さんがいた下諏訪町を結ぶようにできます。諏訪地域の伝承では、茅野側にある諏訪大社の上社から下諏訪側にある下社へ、神様が渡った跡だと言われています。以前写真を見せていただきましたが、伊東さんの家の庭はそのまま諏訪湖に繋がっているんですよね。
伊東 そうです。今は埋め立てられて間に道ができてしまいましたが、当時は家の庭から直接諏訪湖に出られるような場所だったので、冬になると時どき庭からスケート靴を履いて学校へ行っていました。当時はその途中で湖面にできた御神渡りに出合って行き止まりになるという経験もしました。
藤森 建築家は風土の影響を受けるとよく言いますが、私と伊東さんは同じ場所で同じ時期に育ってもこんなに違っている。私はそのことをとても興味深く感じています。ある時、伊東さんにいちばん心に残っている風景は何かと聞いたことがあります。すると、伊東さんは諏訪湖の光景がやはり自分にとってたいへん印象深いと言われた。私は、伊東さんの心に残っている諏訪湖とは海と同じようなものかと伊東さんに言ったら、「お前の諏訪湖の理解は正しくない」と言われました。
伊東 そんなこと言いましたっけ。
藤森 言いました。海は茫漠と広がっていて、諏訪湖も海と同じように真っ平らだけれど、山が周囲をぐるっと回り、自分の背で閉じているところが違うと言われました。磯崎新さんにも伊東さんと同じ質問をしたことがあるのですが、磯崎さんは瀬戸内海の光景がいちばん心に残っていて、それはギリシャやローマの海とは違った、春の海のようにノタリノタリした海だとおっしゃっていました。
伊東 私はソウルから海を渡ってきましたが、幼すぎて当時の記憶は全然ないので今でも荒れた海を見ると怖いんですよ。水と言えば諏訪湖のような波ひとつない鏡のような水という印象が強いのです。最近は大三島という瀬戸内海の島によく行きますが、瀬戸内海も本州と四国、九州に囲まれた穏やかな海で、諏訪湖と似ていると感じています。
藤森 諏訪湖は閉じていて外縁がずっと陸でできていると聞いて、まさに伊東さんの建築そのものだと思いました。真っ平らなものがあって、その周りがぐるっと囲まれて、自分はその閉じた内側に立っている。伊東さんの作品を見て思うのは、そのように閉じた水面のみが生む絶対的水平感があるということです。
伊東 若い頃はまったく意識していませんでしたが、この歳になって、やっぱり育った場所の風土が影響していると感じます。自身の原風景には、やはり抗えないものがありますよね。
藤森 これから作品を見ていくと分かりますが、伊東さんの作品は、若い頃から現在まで、基本的に水平をベースとしている点は変わらないんですよね。私がいちばん興味深かったのは宮城県仙台市に建てた複合施設「せんだいメディアテーク」です。敷地に建物がふわっと浮いているような印象を受けますが、それは水平な床があって初めて感じられることだと思います。伊東さんの造形の中にある絶対的水平感は、おそらく茫漠と広がるものではなく、諏訪湖のようにある範囲で完結する水平感なんです
では、私はどうだろうと考えました。もちろん私も冬になると諏訪湖にスケートに行きましたが、実家からはバスに乗っていかなければいけなくて、そんなに日常的な体験ではありませんでした。むしろ私の場合は、守屋山という諏訪大社の上社のご神体の山のふもとの扇状地の光景の印象が強くありました。小さな扇状地ですが、田んぼや家、畑、それからいわゆる里山があって、その奥に神様の山がある。そういう扇状地で育ったので、今でも覚えているのは、石垣や木、土、せせらぎといったものなんですよ。私たちは近くで育ったけれども、見ていたものが相当違うんだと感じます。
伊東 確かに違うのかもしれませんね。
藤森氏が小学校二年生の頃の写真
藤森 私が小学校2年生の時の写真が出てきました。よくこんな写真を先生が撮ってくれたなと思います。
伊東 私はずっと、自分は藤森さんよりも若干都会的な人間だと思っていたんですが、どうやら違うようですね。子ども時代の藤森さんは坊ちゃん刈りで、坊主じゃなかったんですね。
藤森 これは親父が、怪我をするからと言って頭の毛を伸ばさせたからです。周りはみんな丸坊主でした。
伊東 私は高校1年まではずっと坊主でした。
藤森 髪を伸ばすのは嫌だったけど、親が言うから仕方なくやっていました。私の生まれ育った家は江戸時代に建った茅葺きの家で、親父が建て替えていました。あと、竹馬が好きでした。
藤森氏が小学校高学年の頃の写真
伊東 藤森さんには運動をしているというイメージがあまりなかったんだけれど、高い竹馬に乗っていて、すごいじゃないですか。
藤森 伊東さんがおっしゃる通りあまり運動はやらないですよ。歩くのは好きだけれど。私たちが育った頃の田舎って、ほとんど江戸時代のままだったんじゃないかと思うことがあります。というのも、当時家にあった近代的な物は、陣笠の電灯と親父が手づくりしたラジオ、村で初めて入ったガラス入りの障子、水道くらい。だから、食べる物や着る物といった家の日常的な暮らしは、もうほとんど江戸時代と変わらなかった。一方で、学校や病院、鉄道といった制度的なものは完全に近代的だった。そういう環境下で育ったんだなとつくづく思います。
伊東 東京に初めて行かれたのはいつですか?
藤森 1964年のオリンピックの時です。当時、東京国立博物館で大規模な国宝を全部集めた展覧会が開かれていて、それを観に行きました。その前に、中学の修学旅行でも行きました。
伊東 私は小学生の時、両親に連れられて東京に行ったのですが、その頃の移動手段は蒸気機関車で、トンネルのたびに窓を閉めないといけなかった。諏訪から東京に出るのに6時間くらいかかりました。
藤森 明治維新以降、近代的な制度は確立していましたが、子どもの時に私の生活の中にいわゆるモダニズムの建築はありませんでした。そんな中で、病院の院長さんの家が西洋館で、私は一種の憧れとして、西洋館みたいな建築に興味を持ち始めたのだと今にして思います。その憧れの先にはまず東京があって、さらに先にはヨーロッパがあったのですが、田舎育ちにはヨーロッパは遠い話でした。
伊東 私も東京はすごいところだと思っていました。
伊東氏の小学校時代の集合写真
藤森 伊東さんの小学校の集合写真を見ると、女の子もみんな下駄ですね。靴は履いていなかったんだ。
伊東 みんな下駄で学校に行って、帰ってきたら裸足で遊んでいました。
藤森 私は学校へは靴を履いていったけど、昼間校庭で遊ぶ時はみんな裸足でした。今から考えるとよく怪我しなかったなと思います。
伊東 本当にそうだよね。膝小僧はいつも擦りむいてましたけれどね。でも運動会でも全部裸足でしたね。
藤森 そうでしたね。この集合写真にも裸足の人がいるもんね。これはどこで撮ったんですか?
伊東
小学校4年生の時に学校の近くで撮ったんだと思います。
藤森さんは見たことがあるらしいんだけど、私が中学校2年生の時の通知表は学業の方はほとんどが5でしたが、「社会的活動」は、まったくダメでした。野球は大好きで走るのも速かったんですけどね。それから歌唱力もダメでした。
藤森 歌唱力は、相当高いじゃないですか。
伊東 うーん、今だったら5ですね(笑)。中学生の頃の担任の先生がものすごい熱血漢で、私はどちらかというとじっと黙って人のやることを見ているような子どもだったので、「お前は成績がいいのにどうして積極性がないんだ」といつも怒られていました。
藤森 伊東さんの東京大学の建築学科時の印象について同級生の方に聞くと、今言われたのと同じで「伊東さんはじっと黙っていて、何を考えているか分からない人だった」と言っていました。役人になるタイプかと思っていたら、菊竹清訓(1928〜2011年)さんの事務所に行ったので、同級生の皆さんは本当にびっくりしたそうです。
伊東 私自身も藤森さんと対談するような人間になるとは思わなかった。その中学校の頃の担任の先生は数年前に88歳で亡くなられたのですが、よく手紙をくれたり、テレビに出ているのを見たぞと言ってくださいました。この先生がいなかったら、東京へもそんなに早く出て行かなかったでしょうし、素晴らしい先生でした。
藤森 その先生は、茅野市での私と伊東さんの公開対談の時に来て、昔話をしてくれました。