アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
「神長宮守矢史料館」外観
「神長宮守矢史料館」入口。軒を支える柱が屋根を貫く。屋根は地1産の鉄平石葺き
「神長宮守矢史料館」ホールから展示室を見る
「神長宮守矢史料館」展示室
伊東 1990年代に入ると、いよいよ藤森さんが建築をつくり始めます。建築をつくろうと思った理由は何だったのですか?
藤森 私自身は建築をつくることが好きだったし、それなりの自信もありました。しかし大学時代に建築をつくるのをやめて歴史をやろうと決意した。それまで日本の近代建築の通史がなかったので、自分が書こうと考えたのです。もうひとつの理由は、評論や設計は生きた現代の世界、それに対して歴史は過去の死んだ世界と考えていて、その死んだ世界を生きようと思ったからです。伊東さんや石山さんのことはよく知っていたけれど、自分が行かないことを決めた世界の人たちなので、自分からは絶対に付き合いませんでした。
「神長宮守矢史料館」断面
「神長宮守矢史料館」1階平面
「神長宮守矢史料館」2階平面
この時期に、『日本の近代建築』(岩波新書、1993年)という本を書き始めて、だいたい目処が立った頃、たまたま私の故郷から小さな博物館をつくってほしいという依頼が来て、長野県茅野市に「神長官守矢史料館(1991年)」をつくりました。最初は、自分の友人の誰かに設計を頼めばいいと思ったんです。伊東さんのおじいさんは諏訪大社の下社のためにたいへん貢献した人なので、伊東さんにお願いしようかとも思いました。一方、守矢家は諏訪大社の上社の筆頭神官で、上社と下社は別で、神社はそういうことを大事にするのでダメでした。そこで、仕方なく自分で設計することにしたのです。その時にはっきりしていたのは、現代建築の影響を直接示すようなことは絶対にやってはいけないということです。これは、「藤森は生意気なことを言っているけれど、やらせてみるとこの程度か」と、皆さんに絶対に笑われてしまうから。一方で、歴史的なことはもっとやってはいけません。守矢家の歴史は縄文時代から続いているので、歴史の浅い民家形式なんかでは対応できない。現代もダメ、歴史もダメという中で設計を考えなければいけません。
「八代市立博物館・未来の森ミュージアム」外観
「ティーム・ディズニー・ビルディング」西側から人工池越しに見た全景
「水戸芸術館」エントランスホール(右)と広場見下ろし全景(左)
伊東さんの熊本県八代市の「八代市立博物館・未来の森ミュージアム(1991年)」と磯崎さんのフロリダ州につくったディズニー・ワールドの社屋「ティーム・ディズニー・ビルディング(1991年)」が同じ年に竣工しています。「ティーム・ディズニー・ビルディング」は『新建築』1991年6月号で「神長官守矢史料館」と一緒に掲載されました。「八代市立博物館・未来の森ミュージアム」で伊東さんは初めて、造形的なことに取り組まれ、とても美しい線を描いた。さすが伊東さんと思いました。でも伊東さんは、曲線の美しさを褒められても別に嬉しそうじゃなかった。その時に、元々黙っていても美しい曲線を描ける人は、褒められても何とも思わないのだなと感じました。
伊東 屋根の形状は何度もデザインをやり直したのですが、構造を担当してもらった木村俊彦(1926〜2009年)さんにまた変更するのかと怒られてしまって、酒を持って「もう1回だけ変えさせてください」と謝りに行った記憶があります。完成すると木村さんはけっこう気に入ってくれました。またこの頃、ずっと篠原一男さんの弟子だった大橋晃朗(1938〜1992年)さんに家具製作をお願いしていたのですが、この「八代市立博物館・未来の森ミュージアム」が大橋さんの遺作になってしまいました。当時大橋さんは既に癌を患っていて調子が悪かったのですが、すごく楽しそうに協働してくださったことを覚えています。
「八代市立博物館・未来の森ミュージアム」と同時期に竣工した磯崎さんの茨城県水戸市の複合文化施設「水戸芸術館(1990年)」の隣で、今、「水戸新市民会館(2022年竣工予定)」のプロジェクトを進めています。磯崎さんのハイブローな建築に対して、街の人で賑わう俗っぽい建築をつくりたいと思っています。磯崎さんの建築では市民のカラオケ大会は似合わないと思うんです(笑)。そういう市民のための催しにふさわしい建築をつくりたくて、街の方からもそういう要望をいただいています。
藤森 「水戸芸術館」は磯崎さんの天守閣みたいなものだもんね。インテリアを見るとウィーン・セセッションを使ったヨーロッパのポストモダンです。
次は原さんが大阪府大阪市につくった「梅田スカイビル(1993年)」ですが、原さんは意外と大きな記念碑的な建築をたくさんやっていますよね。
伊東 そうですね。同時期に竣工した建築で、イタリアの建築家レンゾ・ピアノによる「関西国際空港(1994年)」やアメリカの建築家ラファエル・ヴィニオリによる「東京国際フォーラム(1996年)」などがありますが、やはり日本人がつくるモダニズム建築と違います。
「東京国際フォーラム」内観
「関西国際空港」国内線ゲートラウンジ
藤森 独特の違いがありますよね。日本人が木造でやってきたことと、外国人が石でやってきたことの基礎的な違いが、それぞれの身体の中にあるんじゃないかと私は思っています。磯崎さんはそのあたりの違いにはっきり気づいていた上で、自身の設計にも取り入れてやられていたのだと思います。その違いはいったい何かということは本当に難しい問題で、しかし外国人たちから見ると、日本人の建築には自分たちにはないものがあると、とても興味があるらしいのです。
伊東 藤森さんの「神長官守矢史料館」もこの時期に竣工しました。藤森さんの建築は石垣や里山、田んぼ、畑といった日本の風景と本当に合いますね。また、山口百恵の「いい日旅立ち(1978年)」という歌を思い出すんです。あの歌は、なくなったものを探しに旅に出るという内容で、藤森さんの建築は、そのなくなったもの、つまり懐かしいけれども今はないと思っている世界を、どこか彷彿とさせるところがあります。それは私にはできないから、素晴らしいと思います。
藤森 私としては、世の中の一般とは違った変なものをつくったという感じがあります。私の生まれ育った村に建つもので、建主の守矢家の先代当主は、私の名前をつけてくれた方でもあり、世間はともかく自分の納得するものをつくればいいと考えていました。難しかったのは、この建築は文化財を納めるため不燃建築物でなければいけないことでした。木造はダメで、鉄筋コンクリートでつくらなければならず、なおかつ大事な村の風景を壊すことはやってはいけない。そこで鉄筋コンクリートで躯体をつくった上から自然の素材をペタペタと取り付けました。モダニズム建築では構造をちゃんと表現するのが基本ですが、そんなことをしなくてもちゃんとした建築ができるということが分かった。それは嬉しかったです。だから今もそうなのですが、見えないところは現代的につくっているのです。そして、見える部分やスペースに余裕があるところには、できるだけ自然なものを、手の跡を残すように使っています。その部分を、伊東さんや他の方に見てもらって、嘘くさいと言われなかったのは嬉しかったです。「よく分からないけれど面白いことだからやりなさい」と言ってサポートしてくれました。私はこれ以降、この路線をずっと変わらずにやっています。
伊東 こんな片流れで柱が突き抜けている屋根は日本の歴史の中にはあまりないものです。それなのに周りの風景に対して違和感がないから不思議だなと思ったんですよね。
そして、藤森さんの自邸である「タンポポハウス(1995年)」へと続きます。
「タンポポハウス」外観
藤森 「タンポポハウス」が竣工して、これまでさまざまな作品に呼んでくれたお礼の意味もあって、伊東さんと石山さん、石井さんをお呼びしました。今でも覚えているのは、伊東さんが屋根の緑化を見て、石山さんに「これからは赤派も大変だな」と言ったことです。それに対し石山さんは黙っていましたが。赤派とは物の存在感を重視する建築家たちを指します。それに対して白派とは数学的抽象性を重視する建築家たちのことを指します。私は、私自身や石井さんを赤派、槇さんや伊東さんを白派と呼んでいましたが、伊東さんは要するに赤派は物の存在感を徹底的に追求するあまり、緑化という方向にも手を出すのかということを言いたかったのだと思います。
伊東 「タンポポハウス」を見に行った時に、ちょうど藤森さんが屋根のメンテナンスをやっていたんです。「なかなかタンポポが咲かねえんだよな」とか言ってました(笑)。壁や軒に使っている鉄平石は、諏訪地域の特産の石で、今はもうなかなか手に入らないでしょう。
藤森 中国から輸入すればあるけれど、そもそも施工がとても面倒なので葺く人がいないのです。凸凹したものを葺いていくと全体がぐちゃぐちゃになってしまうので、それが大変なのだそうです。
伊東 私にとっては、藤森さんの建築の中でこれがいちばん不思議だね。
藤森 今でも夜中に帰ると自分でもギョッとするよ(笑)。見慣れないというか、自分でも消化できないものがあるんでしょうね。
伊東 インテリアは、とても綺麗だなと感心しました。板張りの間を白い漆喰で埋めていて、なんとも言えない不思議な仕上がりです。伝統的な和風とも全然違う。
次は、私が自分の郷土に設計した「下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館」という、諏訪地域で出土した土器や石器を紹介する諏訪湖展示室と、諏訪を代表するアララギ派の歌人・島木赤彦の生涯を紹介する赤彦展示室を併設した博物館です。
「下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館」諏訪湖から見た外観
「下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館」階段手前から2階展示室を見る
「下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館」2階平面
「下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館」1階平面
藤森 私はこれを見た時に「中野本町の家」を反転したものだと思いました。敷地は伊東さんの実家のそばですか?
伊東 実家はここからもう少し行ったところですが、この敷地の前を通って学校に行っていたんです。実は、コンペティションに通ったら、藤森さんにアドバイザーになってもらって、ここでの展示の企画をお願いしたいとキュレーターに伝えたのですが、そんな必要はないと言われてしまい、博物館は難しいなと思いました。
藤森 伊東さんに案内されて石山さんと見に行ったことを覚えています。
伊東 現地にはできるだけ船で案内するようにしています。タクシーに乗ると、タクシーの運転手さんが「あそこに行ってもつまらないですよ、外は妙な格好をしてるけれど中は面白くないから、他に行った方がいい」と言うのです(笑)。