アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
「直島町役場」北側外観
「つくばセンタービル」フォーラム俯瞰
藤森 次は1980年代です。槇 文彦さんが、先ほど出てきた人たちのことを「平和な時代の野武士たち」と呼びました。われわれの自閉の世代を初めて言語化したのが槇さんです。
伊東 うまい呼び方だと思ったけれど、当時は悔しいなと思いました。
藤森 この時代には伊東さんの「シルバーハット(1984年)」と「東京遊牧少女の包パオ(1985年)」が完成しますが、これはショックでしたよ。
伊東 石井さんは「直島小学校」以降、幼稚園や中学校も手掛け、最後に「直島町役場(1983年)」をつくりました。直島町の町長さんにすごく気に入られたのだそうです。
藤森 「直島町役場」は、日本におけるポストモダンの典型だと思います。磯崎さんのポストモダンは少しズルくて、日本ではなくヨーロッパの様式でやっている。茨城県つくば市の複合施設「つくばセンタービル(1983年)」は、磯崎さんのポストモダン建築です。日本の和風なものを絶対に入れていない。入れてしまうと正当性がなくなるということを知っているんですよ。そこが磯崎さんの賢いところです。つまり日本の様式では日本の文化的知的領分で問題が起きることが分かっているからなのです。しかし石井さんはそういう点は全然平気なんですよね。
「同世代の橋」外観
「SPIRAL」外観
伊東 私や石山さん、毛綱さんといった同世代の建築家が設計した住宅を組み合わせてつくった石井さんの「同世代の橋(1986年)」も印象的でしたね。無茶苦茶な人だったけれど忘れがたいし、ああいう人がかき回してくれたからこそ、われわれはいつもエネルギーをもらっていたような気がしますね。
藤森 そう思います。石山さんと石井さんのふたりがわれわれ世代のミキサーでした。
伊東 この「つくばセンタービル」を石山さんとふたりで『建築文化』で批判しました。磯崎さんの建築はいつも引用だということを批判したのではなくて、磯崎さんの建築はいつもブヨブヨだと言った。7割に縮めると丁度よくなるくらい太り過ぎだと言ったら磯崎さんが怒ってしまった。今思うと、当時考えていたことと完全に逆で、引用しているというのは頭で考えていることで、ブヨブヨしているのは磯崎さんの身体的な思考によるもので、それはむしろ面白くてよかったと思います。磯崎さんは性格もどこかおおらかなのです。
藤森 私は磯崎さんが言葉の力で生き延びてこられているところがずっと好きでした。また、独特のプロポーション感覚があるところもすごい。何かひとつ強みを持っていると生き延びられるんです。伊東さんの絶対水平感みたいなものが、磯崎さんの直方体です。それで、以前磯崎さんにいつごろ直方体に目覚めたのか聞いてみたのですが、どうやら磯崎さんには丹下さんから逃れたいという強い気持ちがあったのだそうです。丹下さんは直方体ではなく、横長のプロポーションです。直方体は縦が長すぎるので建築向きではないんです。だけど、アンドレア・パラーディオ(1508〜1580年)の建築を見た時に、直方体でも建築はできるんだと思って、それ以降磯崎さんは直方体の建築をずっと続けています。
伊東 次は槇さんの南青山にある複合文化施設「SPIRAL(1985年)」ですが、これはいちばん槇さんらしい建築だと思っています。
藤森 東京都渋谷区の旧山手通り沿いにつくられた集合住宅や店舗からなる複合施設「ヒルサイドテラス(第1期:1969年〜第7期:1998年)」は都市計画的に素晴らしく、「SPIRAL」は建築として素晴らしいと思います。実は「SPIRAL」は、モダン住宅として名高い「土浦亀城邸(設計:土浦亀城、1935年)」のファサードにそっくりです。それを槇さんに聞いてみたら、確か槇さんが小学校6年生の時に「土浦亀城邸」を見に行って、そこで建築家になろうと思ったと言っておられました。だから「土浦亀城邸」のような薄い面の分割で構成する方法を、槇さんはやり続けられているのだと思います。
伊東 「SPIRAL」は私のオフィスのすぐ近くで、よく見に行きました。ファサードのアルミが5ミリ厚なんですが、それが私は羨ましかった。その頃の私たちは2ミリ厚のものしか使えなかったのです。5ミリ厚だと切りっぱなしで使えるのですごいなあと思って見ていました。
原広司さんが大田区に設計した大手アパレルメーカーの本社ビル「ヤマトインターナショナル(1987年)」は綺麗ですよね。原さんは育った場所がわれわれと近いです。
「ヤマトインターナショナル」西側外観
「東京工業大学100年記念館」東側外観
藤森 原さんは長野県伊那市の出身で子どもの時からずっと南アルプスを見続けてきている。「ヤマトインターナショナル」で表現しているのは南アルプスの光景で、凸凹するところに光が当たる姿は、山脈の尾根を見ているようです。それを原さんに言ったら、「歴史家はすぐそういうことを言う」と言われました。
伊東 原さんが設計の初期に描くスケッチがすごく綺麗で、私はどちらかと言うと静かで物が少ない世界を好むのですが、逆に原さんは、物がたくさんあって煌びやかな世界をつくられていて、いいなと思っています。しかし、実作になるとそれがだいぶ消されてしまう印象を持っています。難しいことだとは思いますけれど。
次は、篠原一男(1925〜2006年)さんが東京工業大学創立100年記念事業の一環として大岡山キャンパスの正門脇につくった「東京工業大学100年記念館(1987年)」ですが、上部にパーティーをやるようなレストランがあって、私はそこを訪れた際に、なんだかここにはいたくないと思ってしまいました。篠原さんの初期の住宅作品はすごくいいと思うのですが。
藤森 建築は大きくなって失われるものがありますよね。特にコンクリートの打ち放しは、大きくなるとどんどん土木構造物に近づいてしまう。
伊東 いかにも頭でつくっているなと感じました。人のことはいくらでも言えるんですけどね(笑)。
「シルバーハット」外観俯瞰
「シルバーハット」コート
「レストランバー・ノマド」内観
次は私の「シルバーハット」で、隣には「中野本町の家」があります。「シルバーハット」はけっこう石山さんの影響を受けています。丸い窓はもらってきた車のドアだったりして、ブリコラージュの手法を使っていました。「シルバーハット」の少し後に「レストランバー・ノマド(1986年)」をつくりました。元々仮設としてつくってほしいと言われていたのですが、フランスのジャン・ヌーヴェルをはじめ、いろいろな人が来て関心を持ってくれました。
藤森 「シルバーハット」を拝見した時、私は伊東さんに負けたと思った。「シルバーハット」が竣工して、私と石山さん、毛綱さん、布野修司さんを伊東さんが招待してくださった。見学後、お酒を飲みながらみんなが一緒に見せてくれた「中野本町の家」の議論を始めたから、伊東さんは、「今日は新しくつくった『シルバーハット』の印象を聞きたかったのに、昔の話ばかりして、どういうことなんだ」と本気で怒った。実は当時の私には「シルバーハット」で伊東さんがやりたかったことが分からなかったんです。その場にいた全員が分からなかった。なぜこんなにペラペラしたことをやっているのか。その後、伊東さんの「レストランバー・ノマド」を見て、そこでようやく伊東さんのやろうとしていたことが分かりました。また、伊東さんは「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(『新建築』1989年11月号、201〜204頁)を書かれましたが、そこで伊東さんが消費を語ったのが、私としては印象深かった。メタボリズムの建築家たちが消費的な建築をつくろうとしたのに対して、われわれはそれを拒んで自閉したのですが、その後、伊東さんがまた消費と言って、ペラペラした建築をつくったので私も最初はびっくりしました。しかし、伊東さんはちゃんと時代を見据えていて、消費の時代が始まっている中で自分がどうしていくのかという姿勢を建築家としてちゃんと示さないといけないと考えられていたのですね。だから、メタボリズムの建築家たちが消費の海に流されていくのとは違うんだと思いました。
伊東 消費の時代に、どういう建築があり得るのだろうと思っていました。当時使われないまま壊されてしまった建築もありました。土地が異常に高騰していて、建築なんて紙くずみたいなものとして扱われていた時代でしたからね。でも、その頃の東京は、私はけっこう好きでした。まだ何か自分に近いところにいろいろなものがあるような感じだった。今はもうすべてが遠いところにあるように感じています。