アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
「都城市民会館」東南側外観
「エキスポタワー」見上げ
藤森 伊東さんは東京大学卒業後、菊竹清訓建築設計事務所に飛び込まれました。菊竹さんのところでは何を担当したんですか?
伊東 ちょうど東京急行電鉄(現、東急電鉄)と共同で計画した「多摩田園都市(1996年)」が始まった時期に入所しました。その前の大学4年生の夏休みにも1カ月だけ菊竹事務所でアルバイトをしていました。その時は、宮崎県都城市のホールで現在解体工事が進んでいる(2020年3月に完了)「都城市民会館(1966年)」の設計が始まった時でした。私は「都城市民会館」の設計の前のリサーチを担当しました。遠藤勝勧さんという菊竹事務所に長年勤められていた方のつくられた模型や図面が見られる展覧会(都城市民会館展––建築アーカイブズにみる菊竹清訓––)が、建築会館で2月17日から19日までの3日間開催されますので、皆さんも是非ご覧になられるといいと思います。
藤森 菊竹事務所には何年在籍していましたか?
「EXPO'70」俯瞰
伊東 1965年から1969年の4年間です。最後は1970年の大阪万博の「エキスポタワー(1970年)」を担当し、途中で放り出してやめてしまい、菊竹さんには今でも申し訳なかったなと思っています。
藤森 「エキスポタワー」を最後に独立されたのですね。1970年代は、たいへん面白い時代でした。安藤忠雄さんが「住吉の長屋(1976年)」を、石山修武さんが「幻庵(1975年)」を、毛綱毅曠(1941〜2001年)さんが「反住器(1972年)」を、石井和絋(1944〜2015年)さんが直島で学校や庁舎などをつくっていて、伊東さんは「中野本町の家(1976年)」という衝撃的な作品を発表されました。
伊東 ちょうど1970年に大阪で万博があって、私は1965年から菊竹さんの事務所にいたので、メタボリズムという運動に憧れていたわけです。未来都市をつくるというメタボリストたちの夢がすごいと思って、菊竹さんの事務所に行ったのですが、働いているうちに意外とそうでもないと思い始めて、1969年にやめてしまったのです。藤森さんは大阪万博には行かれましたか?
藤森 行きました。当時大学生だったのですが、つまらないと思った。
伊東 やっぱり(笑)。
藤森 詐欺みたいなものだと思った。未来の都市のあり方と未来の技術を見せるというテーマだと思って行ったのですが、今でも覚えているのは、どこかの風呂の会社の自動風呂というもので、水着を着た女性がカプセルに入りその周りをグルグル水が流れているだけでした。あまりにもバカバカしくてこれが未来なのかとガッカリしました。いちばん人気だった月の石も見た目は普通の石。
伊東 そうですね(笑)。
藤森 少なくとも、未来的とか、新しい時代の何かを見せるという感じは全然なかったですよね。デザイン面でも黒川紀章(1934〜2007年)さんや大谷幸夫(1924〜2013年)さんがいろいろやっていましたけれど、どれも未来的な感じではなかった。
伊東 磯崎さんが「デク」と「デメ」というロボットをふたつつくりましたが、そのソフトを担当していた月尾嘉男さんは私の同級生で、彼がオープン前に見せてくれると言うので見学に行きました。私も藤森さんと同じように、これが未来都市かと愕然として、他は見に行かなかったですね。
藤森 未来都市っぽいということで動く歩道もあったんです。動く歩道ってエスカレータがただ水平に動くだけですから、どこが未来なのかと。この頃にはもう、万博が新しい技術を見せるという時代はとっくに終わっていたんですよね。次は過日、亡くなられた石井和紘さんの話に移りましょう。
「直島小学校」南側外観
伊東 石井さんの話をし始めたら、もう1時間でも2時間でもできそうです。今直島に「直島小学校(1970年)」を見に行く人は少ないと思いますが、実はこの施設は東京大学の吉武泰水(1916〜2003年)さんの研究室が担当するはずだったプロジェクトを、石井さんが学生運動のどさくさに紛れて持っていってしまったものです。
藤森 そのあたりは石井さんらしいね。
伊東 私は、心配だから面倒を見てやってくれと吉武先生に頼まれていたのですが、あんなやつの面倒なんか見たくないから、システマティックなトラスの体育館の天井伏せを一枚だけ描いて逃げてしまった思い出があります。その後、彼は直島で気に入られていろいろな作品を手掛けています。
「反住器」外観
藤森 次は毛綱さんが北海道に建てた住宅「反住器」。これは日本のポストモダンと言われていますけれども、いちばん注目してほしいのは開口部がほとんどないところです。実際に人が生活するのは半地下というとんでもない作品ですね。そして、石山さんが愛知県に建てた住宅「幻庵」。これも衝撃だった。
伊東 素晴らしいです。
「幻庵」外観
「幻庵」内観
藤森 今でも、石山さんは「幻庵」を超えられないもんね。
伊東 そうですね(笑)。
藤森 何年か前に、石山さんが私に「そろそろ処女作が壁のように立ちはだかって困るようになるぞ」と言ったことがあります。石山さんにとって、「幻庵」はずっと立ちはだかっている壁なのでしょうね。
伊東 「幻庵」は今でも綺麗だそうです。私も竣工から何年か経った時に、渡辺豊和さんと一緒に見せてもらいました。こういう建築が今はないですよね。
藤森 「幻庵」は半分地下に埋まっていて、後ろに山が広がっている。石山さんが「幻庵」の前に影響を受けた建築に「川合健二邸(ドラム缶の家)(1966年)」があります。私はこれを高校時代に週刊誌で見て、こんな家をつくる人がいるんだとすごく衝撃を受けました。その後大学院に入って歴史をやっている時に「幻庵」が完成して、私はあの「川合健二邸」をこういうかたちでちゃんと作品にする建築家がいるんだと感心して、設計をしなくてよかったと思いました。設計をやっていたらこういう人たちと争わなくてはいけないですから。
この「幻庵」にも施主から聞いた面白い話があります。石山さんは「幻庵」の現場によく来ていたらしいので、来ていったい何をしていたのかお施主さんに聞いてみました。そうしたら、お施主さんたちは石山さんに言われてみんなそれぞれ現場でペンキを塗ったらしいのですが、石山さんはその間にやることがなくて、機械かなんかを布で拭いてるだけで、ほとんど手は動かさなかった。彼の作品を見ると手の感覚が至るところにあって自ら手を動かす人に見えるでしょう。しかし、本人は動かさないのだそうです。
伊東 一生に1個でもこういう建築をつくれたらいいですよね。だから石山さんはもう、何をやっててもいいんだよ。
藤森 そうそう(笑)。
伊東 次は安藤さんが大阪に建てた「住吉の長屋」です。
藤森 これだって、一生に1個つくればいいような建築です。
伊東 そうですね(笑)。このふたつは対照的で面白い。一方の安藤さんはこれをきっかけにして一世を風靡する建築家になり、もう一方の石山さんはもちろん素晴らしい建築家なんだけれども、表舞台にはあまり登場しない建築家でしょう。なぜでしょうかね。
藤森 私が思うに、石山さんは発言が過激だからではないかな。発言って変なところで効いてくるんです。例えば石山さんの『バラック浄土(相模書房、1982年)』は名著ですが、今で言えば震災復興の仮設住宅や難民の問題といったナイーブなところにも言及している。施主は、建築家に発注する時には必ずその人の著書も読むので、みんなその内容に縮み上がってしまうのです。伊東さんはそういう点では、あまり施主を怯えさせるようなことは書かないし、私もできるだけ注意はしています。
「住吉の長屋」外観
「住吉の長屋」光庭
「住吉の長屋」で注目してほしいのは、世界で初めて開口部の分からない建築ができたことです。窓がないのはいいのですが、入口がどこにもなくて、正面に立つとコンクリートの壁しか見えません。
伊東 でも綺麗ですよね。
「アルミの家」西側外観
「アルミの家」コラージュ
「アルミの家」2階平面
「アルミの家」1階平面
藤森 「アルミの家(1971年)」は、伊東さんの処女作ですか?
伊東 そうです。大阪万博で私ももう未来はダメだと意気消沈してしまい、この時は自分でも本当に何をしていいのか分からなかった。大学に戻ろうと思っていたら、大学は封鎖されてしまうし。メタボリズムにも裏切られたような気持ちがあって、いろいろなことが自分の中で混乱している時期にできたのがこの家です。
藤森 「アルミの家」は昔見せていただきましたが、メタボリズム的な面を持っているなと思いました。伊東さんは当時、「アルミの家」はメタボリズムでつくった塔にいろいろ引っ付いていたものが落ちてきた姿だと言っていた。
伊東 そうですね。地上に落下したカプセルというイメージでした。『都市住宅』(1971年11月号)で植田実さんが特集を組んでくれた時に、コラージュをつくりました。銀座だからちょっと綺麗すぎるけれど。
藤森 メタボリズムが失敗したということを図像的に示している。
伊東 ぼたぼたと落ちてきたようなものを私たちはやらざるを得ないというような気持ちだったんですよね。そこから5年経って、少し態勢を立て直してできたのが「中野本町の家」です。
藤森 この住宅も、外側に対してどこにも開口部がなくて、どこから入っていいのか分からない。かなり衝撃的でした。中庭に向けてのみ開口部があるんですよね。
伊東 そうです。
藤森 この時期にわれわれが何をやっていたのかを歴史家として見ると「中野本町の家」も、安藤さんの「住吉の長屋」も、完全に自閉していて、一切社会を拒否している。なぜこの時期にわれわれの世代が社会を拒否したかは重要なポイントです。伊東さんは社会を拒否しているという自覚はあった?
「中野本町の家」外観俯瞰
「中野本町の家」1階平面
「中野本町の家」内観
伊東 そういう時代だったんでしょうね。私が1971年に事務所をつくった時、これから何か仕事がくるかなと思った矢先にオイルショックが起こり、仕事もないし、外食をする お金もないような時代でした。「アルミの家」は上の姉の家で、「中野本町の家」は下の姉の家で、設計料をちゃんとくれるような人たちはほとんどいなかったから、日本道路公団の友達づてにパースを描いてお金をもらって、それをわずかなスタッフの給料に充てている時代でした。当時は、もう亡くなってしまった藤圭子(1951〜2013年)の「圭子の夢は夜ひらく」の「15、16、17と私の人生暗かった」という、暗い歌を朝から聴きながら設計をしていました。
藤森 なるほど、個人的想いとしてはそんな社会状況が原因だったと。一方、われわれ歴史家から見ると少し違って見えます。戦後のモダニズムは社会に対して建築を開くという運動で、その代表としてピロティやオープンな開口部が用いられていました。丹下健三(1913〜2005年)さんをはじめ、みんなずっとそういう建築をつくってきました。戦前の社会に対して、戦後は民主的で開かれた社会になっていくということを、ピロティや広い開口部で応えているんです。
その後にメタボリズムが出てきます。そして、黒川さんらメタボリズムの人たちは、これからは消費の時代が始まり、街中が商店みたいになっていくと言うのです。消費の時代に対して消費的な建築をつくろうという動きは、黒川さんの作品が典型的でしたけれど、そのピークが大阪万博なんですよね。それに対して、伊東さんにメタボリズムのどこを批判的に捉えているのか昔うかがった時に、「私はメタボリズムの影響を強く受けていたけれど、メタボリズムの時間というのは単純な社会の流れにすぎなくて、それがすごく嫌だった。自分としてはもっと内面性のある時間が本当の時間なんじゃないかと思う」とおっしゃっていた。
伊東 そうですね。メタボリズムには変わるものと変わらないものがあって、変わるものは何十年か経って取り替えればまったく同じものができるのです。ただ同じものが繰り返しているんじゃなくて、常に変わって新しいものに置き換わっていかなければ、ただ繰り返しの時間で、生きている時間じゃないということを言いたかったんだと思うんです。
藤森 なるほど。要するにメタボリズムは1種の消費的なデザインで、それに対する反抗、反発が大きかったのではないでしょうか。もしメタボリズムで言われていたように時代の流れに対して単純に創造力も沿っていくのだとしたら、もう建築家の創造力なんていらないね。
伊東 本当にそうですね。
藤森 消費の時代の流れにメタボリズムの人たちが乗っていこうとしていて、それに対しておそらくわれわれはその流れに対して建築や建築家の創造力を守りたかったんじゃないかな。だから、社会と関係を断ち切って自閉したのではないか。実は建築史上で言うと、自閉の動きは2度起こっています。ひとつは、大正期の分離派です。1923年に発生した関東大震災の震災復興で、社会がいわゆる消費の時代に向かっていました。それに対して、おそらく自分たちの建築的な創造力を守るために、分離派の人たちは自閉的になり、自分の中にこそ宇宙があるというような活動をやるんです。建築家は社会の大きな流れの中で、どうも少し違うぞと感じた時に、自分を守るために自閉を選択したんじゃないかと思います。われわれの世代も同じですね。かつてはいっぱい仲間がいたんだけれど、はっきり自閉した連中だけが今も生き残っていると言えるかもしれません。
伊東 「中野本町の家」が『新建築』で紹介された時に、私が事務所を辞めてから初めて菊竹さんが電話をくれて、これはいいと言ってくれました。私が菊竹さんから教わったことで唯一素晴らしいと思っているのは、「頭で考えたことは2、3日で変わってしまうけれど、身体全体で考えたことは、何年経っても絶対変わらない」ということです。菊竹さんがそう言ったわけではないですが、私が4年間事務所にいて体得したことです。そういう視点で見ると、「中野本町の家」は自分の身体的思考でつくっているんです。藤森さんに何度も言われているように、「下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館(1993年)」は「中野本町の家」をひっくり返したものだそうですし、「台中国家歌劇院(2016年)」も内部を歩いているとどこか通じるところがあると思います。他の人がつくった建築を見る時も、頭で考えたことでできている建築はつまらないと思ってしまうのですが、建築にその人の身体性を感じる時にはグイグイと引き込まれてしまいますね。
藤森 そういう身体的思考があるかないかというのは大事なことで、なかなか難しいと思います。
伊東 1970年代は、石山さんや石井さん、安藤さん、それから坂本一成さんや長谷川逸子さん、六角鬼丈(1941〜2019年)さんが、みんないっせいに設計事務所を始めた時代でした。私たちは日々お互いの作品について議論し合って、酒を飲んでいました。そんな時代の経験が、仕事はなかったけれど、その後の自分の活動に生きていると思います。