アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
私自身が、こうした技術とクラフトマンシップをどういうふうに考えて建築をつくってきたか、これからスライドでお見せしたいと思います。
いま日本は、ある意味においてはコストが非常に高くなり、おそらく世界でいちばんになってしまった国じやないかと思うんですが、高い中に、工業に支えられた技術力と、それからまだ求めようとすれば職人芸が実際に存在するという、世界的にみると大変ユニークな地域社会を形成しています。それだけに、もしも建築というものが総含的に時代の持っていたものを100年、200年伝えて残していく意味があるとすれば、建築家の責任のひとつには、そういう現代の技術力とクラフトマンシップをどういうぷうにつくるものの上にはっきりと出していくかということが、非常に重要になると思います。そんなようなことが、現在、大事だなと思っていることのひとつです。
最初は、土浦亀城先生の自邸です。先生は現在90歳ぐらいにおなりになっていると思いますが、昭和の初期から中ごろまで大変活躍されましたわれわれの大先輩で、当時のモダニズムの建築を日本に紹介された最初の何人かのひとりです。現在も東京の上目黒にあります。たまたま私が子供のころそばに住んでいまして、向かいに村田政真先生という建築家がいらっしやいました。この方が当時土浦先生のところに勤められていて、自邸が完成したときに連れていってもらったことをよく覚えています。
何を覚えていたかといいますと、当時吹抜けがあって、中二階があるという空間は非常に珍しかったのです。同時に、写真にうつされているところではパネルヒーターがあったり、壁の色がベージュっぽいのですが、当時真っ白の空間だったのです。それからもうひとつ印象に残っているのが手すりです。手すりが細い鉄ポイプでできている。私の子供のときといいますと、昭和10年代ですから、それこそいまから半世紀前になりますが、そのころの東京はまだ緑に囲まれたところが多くて、山手は特にそうだったのですが、ほとんどの住宅は木造であって、一方、重要な大きな建築も様式的な建築が多かったわけです。ですから、こういった近代建築といまいわれているのは、空間構成だけでなくて、それを構成している物質性の発信するある種の感性においても、非常に新鮮だったと思います。
その後、私が行きました小学校が、やはり当時のモダニストの中の若手のひとりであった谷口吉郎先生が設計された慶応の幼椎舎なんですが、これがまた非常に白くでヘテラスの床にガラスブロックが使ってあったり、中二階があったり、あるいはミステリアスな場所があったりいろいろな意味で衝撃的な建築だったのです。それなんかが、幼いときの記憶として残っています。
もうひとつ空間にかかわる記憶があります。子供のころ親に連れられて、横浜港に外国船が入るたびに連れていってもらったことがあるんですね。そこでも同じようにデッキとか鉄パイプの階段とか手すりとかがあり、一等客室とか食堂に行きますと、ミラーとかいろいろなものが使われています。当時はそういうことは知らなかったのですが、いま考えてみますとアールデコ調のものがありました。建物ではなく客船であったのですが、それが発信するイメージの中に私自身のモダニズムと非常に重なってくるところが多かったのです。
コルビュジエも客船に非常に興味を持っていました。彼の1920年ぐらいのスケッチにはよく出てきます。当時ブラジルなんかへ行きました彼は、大西洋を客船で往復しています。彼の持っていた近代に対する夢みたいなものが、飛行機とか客船を通じて表現されたのでしょう。
次は、私が事務所を始めて最初にやりました作品のひとつで、「代官山集合住居」の第一期です。このころはまだかなり素朴に、近代の持っているイメージとかポエジーみたいなものをダイレクトに出そうということに興味がありました。全体に白の空間で、中のホールはちょっと段差のある空間ですが、土浦先生の自邸とか客船のデッキがひとつの風景としてあって、それがひとりの建築家の実際の空間構成の中に出てきたのでしょう。
われわれは、絶えずいろいろな経験とか印象をストックしていまして、やがて何かの拍子にそれが出てくるんですね。ですから、一生懸命ストックしようとしなくても、自然に自分で選択して意識の中に堆積されたものをやがて出していくということが、きわめて多 いと思います。
最近完成した「京都国立近代美術館」のコーナーにあるガラスの階段室です。ここは非常に構成主義的な手法をとっていますが、それを支えているガラス・金属の物質系があるわけですが、ここではさらに半透明のファイバーグラスが導入されています。有名な「メゾン・ド・ヴェル」です。
1936年、ピエール・シャローという建築家がお金持ちの医者のためにつくった、パリのサンジェルマン・デュプレから少し入った一隅に建てられたタウンハウスで、当時いまでいう最もハイテックな建物だったのです。中が居間になっておりまして、外がガラスブロックで覆われている。
それだけでなくて、この建物の中に行きますと、当時としては異例なことではあったと思うんですが、パーティションとかバスルームなんかが全部ステンレスでできて、いまでいうインダストリアルデザインの固まりでつくられたような、きわめて発明的要素に満ちた建物です。ここですでにコロナのガラスブロックが使われています。
後年、筑波大学の第一期に建てた「体育・芸術専門学群棟」の壁面は全面ガラスブロックを採用しておりますが、ピエール・シャローがそうであったように、現代の工業化社会が持っているイメージをガラスブロックという物質性に託して表現していこうという姿勢がありますが、このガラスブロックは、われわれ多くの建築家の中でもいろいろなかたちで繰り返し使われていくわけです。
これがコルビュジエになりますと、ガラスブロックを面的に使うというよりも、よく大きなコンクリートの中にはめ込みで使っていますね。コルビュジエの階段室などによくこのガラスブロックが出てきますが、むしろ窓の代りとして使っています。ただしパリの救世軍の本部の玄関部分ではかなり大担に面的に採用されております。