アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
ご紹介いただきました、北川原です。
今日は、スライドをもってきましたので、それを見ていただきながら、あまり建築雑誌に書いたりしない、もっと身近な話をしたいと思います。
実は、僕は福岡ではこれまでに二つの建物の設計をしています。さらに昨年秋からスタートした仕事もあり、福岡とは少しばかり縁があります。今日も、この講演の後、どこにおいしい魚を食べに行こうかと考えております。
本日のタイトル「リアリティと概念」について少しお話しますと、常日頃から、僕の設計した作品について、社会性という面からどのように考えているのか、という批判が数多くあります。なかでもいちばん辛辣なのが八束はじめさんの批判です。
以前に福岡でマイケル・グレーブスが座長になって磯崎新さんなどが参加したシンポジウムがありました。僕はそのときパネラーとして参加したのですが、そこでいつものように、人間というものはとか、過剰な自然とかシュールリアリズムといった、観念的なことを話したんですが、そこで八束さんにガツンとやられました。「北川原は自分のやりたいことをただやっているだけである。建築とはそうではなくて、やはり社会との関わりの中で語られなければならない」と批判されました。それ以来、僕はここ何年間か、そうした批判を受け続けながら、あしかし、自分がつくる建物が社会的にどのように位置づけられるなんてことは、なにか少し気恥ずかしいことじゃないか、という気もしておりました。
公共建築のコンペの場合、建物の社会性、公共性ということがまず前提にされます。ですから、それに対してきちんと回答しなければおけない。そこでその建物がいかに社会的に価値があるものかということを設計趣旨に各ことになるんですが、実は僕はそれが非常に苦手なんです。
今までは僕はコンペにあまり参加していません。オープンコンペにはほとんど参加してきませんでしたし、指名コンペにもほんの少し参加したことがあるだけです。そして大抵落選しております。おまけに、建物の社会性についてはほとんど今まで言及したことがありません。多分審査員に「この設計者は社会性について全く考えていない。悪くいえば反社会的である」と思われているんだと思いますが、実は僕はもう少し本質的なことを考えているのです。
つまり、社会的な価値というのは、非常に表面的なことでしかないのではないか、人がこの社会の中で生きていく上で、社会とは個人の世界が錯綜しながら組み上がってできているもので、最近流行の言葉でいえば、ホロニックな関係というか、全体と個が相互に補完し合う、サポートし合うということだろうと理解しております。そして僕自身は、個から全体へということを非常に意識している。つまり、個の世界がきちんとしていないと、社会性をいくら叫んでも言葉だけのことになってしまう。やはり個々人の世界を煮詰めていきたいということが気持ちの中にあるわけです。そういう気持ちでこれまで設計してきましたし、これからも基本的にはその考え方は変わらないであろうと思います。
個人といっても僕個人というより、任意の個人、つまり、僕個人がこういうものをやりたいからやっているということだけでは、決してないんです。その辺は誤解されているように思います。北川原は好きなことをやっているだけだ、それでいいじゃないか、という人もいれば、それはケシカランという人も多い、というだけです。小さいけれども、個の問題を大事に考えていきたいと思います。
個の世界がなかなかリアリティを持ち得ないのが現代社会である。だから現代社会は個の世界を回復する最初の時代になるかもしれない。ということで、これからますます個の世界の回復を目指すというか、概念がいかにリアリティに変貌していくか、というお話しができればと思います。
それではスライドを始めます。