アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
「数寄屋邑」は岡山と広島の県境の笠岡という町にあります。ひとつの家が九軒の家の集合でできています。遠くに瀬戸内海と福山が見えて、のどかなところです。前に柿畑、桃畑、梅畑があって格好の借景となっています。
できるだけ多様なものの集合として数寄屋を考えたい。どのようにして数寄屋を多様化させようかと考え、まず数寄屋を集合させようとしました。それまでの数寄屋を、近代数寄屋という形式に転換するときの手掛かりになったものを集めて近代が数寄屋に与えた影響を考え、顕彰してみたいと思いました。数寄屋は建築の様式ではありますが、将来、全アジアの視点でアジアの文化史をだれかがまとめるときに、数寄屋は建築を超えて非常にユニークな価値を持ってくるでしょう。つまり、昔の様式でありながら近代様式をも持っている。そういう適応力を持った建築様式の例は非常に少ないのです。もちろんヨーロッパにはない。ですから、現代風のゴシック寺院は建つはずがない。宗教と政治の一体化を終わらせたところに、近代社会の誕生があったからです。ところが数寄屋はそういったものとは遊離して持続しているところが面白い。その中に日本の適応力というか、柔軟な適応力を持っているという良い意味でも、受身で自主性に欠けるという悪い意味でも、日本の性格が出ています。
「数寄屋邑」は平面の真ん中に仏間があることが特徴です。近代住宅の中で生活機能に関係のない仏間を大々的に扱うことはありませんでしたが、真ん中にあることによって、そこにこの一家が集まるシンボルとなります。亡くなった先代の慰霊碑があるというかたちで、それを中心に展開しています。訪問客が玄関に向かってお辞儀をしますと、そこに安田さんが座っている。それがそのまま亡くなった先代の仏間にお辞儀をしていることになるというところが、この平面を気に入っていただいた所以です。
施工は東京の水澤工務店です。水澤工務店は、村野藤吾先生、吉田五十八先生、谷口吉郎先生たちにしごき抜かれて育ってきた会社ですから、難しいことをお願いしてもやってもらえます。
一番奥にある「邑庵」は、ブルーノ・タウトを顕彰しています。ブルーノ・タウトは桂離宮がすばらしいといって、日本の昔のものの中に近代と平行して歩けるものがあることを主張しました。タウトは不幸にして日本からトルコで客死しましたが、ミース・ファン・デル・ローエなどほかの建築家と違いアメリカがビザを発行しなかった。それはタウトの民族主義的な性格の強さをアメリカが拒否したのではないかと考えられます。その結果、日本に来て非常に優れた著述を残しました。伝統という昔のものでありながら近代と矛盾しないもの、そういう便利なものを見いだしたという意味でもタウトの功績は大きいのです。そして、しかしタウトの建築は、桂離宮のような直交軸ではないのです。特に代表的な「ガラスのパヴィリオン」(1941年)というのがあり、私はそれを模して「座敷」をつくりました。
この縁側の柱の先に屋根をつけますと、非常に大きな屋根になってしまいます。それで、真ん中のところにタウトの屋根をのせて柱を外にずらそうとしたときに、何かいい方法はないかと考え、中国の天壇を思いつきました。天壇は中に四本柱があり、その四本柱のまわりに柱があるんです。しかし、こういうものが座敷の真ん中に立ってしまうとえらいことになってしまうので、それと外側の柱といっしょにならないかと考えました。しかし、ひとつではどうしても弱いので、全部にかけて四角を三つ重ねていったらどうだろうか、ということになって、水澤工務店の仕切り場で、まず二分の一で模型をつくりました。すると正方形が三つできるのですが、ぶつかってしまう。では、お互いに乗り越えていけばよいのではないかということになり、「へ」の字のリングを考え出しました。みんなで模型を囲んで考えながらつくっていきました。木造がほんとうに楽しいのはこういったところです。それを腕の立つ職人が完成させるわけですが、日本の大工のレベルの高さを痛感します。技術の高さは世界でダントツだと思います。「邑庵」の室内はできるだけ金物を使わずに組み立てています。外からこのドームのかたちを見ても、中に入ったお客さんは天井のドームがわからないのですが、座ったときに天井に気付いてもらえるようになっています。
数寄屋だけでなく日本建築は平面的なものであったのですが、それに対し「三次元の空間がある」と、そこを切り開いてくれたのがバックミンスター・フラーです。「読売カントリークラブ」にわれわれは目が醒めるような重いがしました。それも「数寄屋邑」の中に入れようと、仏間の上にテフロンのテントを張ってみました。仏間を明るくしようと、後楽園スタジアムと同じテフロンを張りました。仏教空間は奈良時代のままで、暗いところに灯明をともし金色の光がチラチラとあり、というのが慣習化しています。これでは宗教自体が刷新されることがないと考えています。伊東忠太は「築地本願寺」(1934年)をインド風出造り、仏間をよりアジア的にしようとしています。
壁の左官は、吉田五十八先生がミースの大理石に匹敵する平滑性を左官のコテで出していますが、この仏間では真壁の上を左官でしごいて円弧を描く壁にしています。これをやるときには、十人以上の地元の左官屋が前に正座をして見学していました。
われわれの住空間に対しての近代化への影響力、それはイサム・ノグチだと思うのです。大工手間だけでつくっていく日本空間です。イサム・ノグチの作業場に移築してきた蔵は丸亀の武家屋敷だったものですが、そのかたちの蔵をつくりました。竹林がある風情。イサム・ノグチの自邸野前の庭がこのようになっていまして、すごいなぁと思っていたものですから、それをここでもやってみました。
堀口捨己先生の茶室研究がなければ私は数寄屋をつくれなかったというほどたいへんな恩恵にあずかっていますが、非常に気になる建物が藁葺きの「紫烟荘」(1926年)です。堀口先生は一方で茶室研究をしながら、その一方で白い近代建築をつくりました。ところが「紫烟荘」は堀口先生の茶室研究でもなく、また先生の白い近代建築でもないものなのです。堀口先生はこれを「非都市的なるもの」と呼んでいます。堀口捨己の本音だろうと思っています。オランダ風といわれています。ほんとうに紫の煙になって燃えてしまったんです。それで、私は瓦をのせ「紫円荘」と名付けてお客さんを泊める建物をつくりました。こういう数寄屋系の建物の面白さは、瓦などがのっていても解体して移築できることです。釘打ちで抜けなくなるやり方ではありません。この場合も解体してどこかへ持っていけます。屋根のかたちですが、これは材木で円弧をつくって組み立てました。
それから外構において今の時代に一番影響力があったのは、谷口吉郎先生だと思っています。例えば、名古屋にある料亭の「河文水かがみの間」(1973年)の中庭には伊豆の青石が敷き詰められた真っ平らな池があってとてもすばらしい。
そして村野藤吾先生。私は日本建築を少ししかしらなかったのですが、それでも村野藤吾先生が亡くなったときは、これで日本建築は終わってしまったかという感じがするぐらい衝撃的でした。それで深夜お通夜に行きました。村野藤吾先生のお宅の「残月の間」に村野藤吾先生がおやすみになっておられ、その後ろは全部白い百合の花でした。これが「村野の残月」かなぁ、と思いました。残月の写しはたくさんあります。村野藤吾先生ご自身も全部で二十ぐらい残月をされているのですが、やはり先生のご自邸の残月が一番いいと思います。自慢ですが「村野の残月」をコピーしたのは私がはじめてではないでしょうか。わざと板を割って竹を入れたりしている。村野先生はいろんなやり方をされています。残月の掛軸が横から見えるのを嫌いだという人もいますが、軽さといいますか、そういうものがすごくいいんじゃないかと思い、この座敷で使っています。
それから村野先生の「中川邸」(1952年)の門ですが、これはほんとうに傑作だと思います。浪速組の社長の家だそうですが、今はありません。その門をそのまま「数寄屋邑」の玄関に写させていただき銅板で屋根を葺きました。この玄関の角度は仏間を指していまして、施主であります安田さんのおばあさんがそこに座っていて、われわれが挨拶すると、そのまま亡くなられたご主人にお辞儀をすることになるというわけです。
村野先生の中で私が驚いたというか、びっくりしたのが、「迎賓館(旧赤坂離宮)」(1974年)の衛士の小屋です。いわゆるチッペンデールなのです。今では非常に簡便化してきて、フィリップ・ジョンソンの「AT&Tビル」の上にくっついたりしていますが、それより前に、村野先生は三次元でそれをやっていらっしゃる。そこで、巨匠がこういうことをされていいのなら私もやっていいだろうと思いました。この居間の屋根に迎賓館よりもう少し長くしてやったわけです。これもたいへん苦労してつくりましたが、鹿島建設がよく施工してくれました。ここでも職人のレベルの高さを痛感しました。難しいことをお願いすると、喜んでやってくれるようなところが職人たちにあり、それが非常に嬉しい。お金のために仕事をするのではないぞ、というところがあるんですね。
「紫円荘」では「こんな瓦の図面を書いてどうやって葺けというのだ」と、はじめは胸ぐらをつかまれたりしました。「断面形は円弧だから、重なりは同じなのだから。それが近代建築なのだから」といって納得してもらったんです。そういう彼らを見ていると非常に頭が下がる思いがして、こちらもおろそかに図面を書いてはいけないと反省しています。コンクリートならとんでもないかたちをしていても痛くもかゆくもないんですよね。
これまで話をしてきたように、いろいろ違うものが集合していく。しかもきちんと納まる。そして集合していったときに多様性が生まれる。多様性というのは自民党解体後の多党化時代の性格そのものであるし、その多様化したものが識別可能なように分解していくというのが今の時代の自己変革時代の大きな特徴だと思います。
先日、NHKのプログラムで、面白いことをいっていました。セックスのことなんですが、セックスは子供をつくる作用であるのか、お楽しみであるのかよくわからないでみなさん励んでいられると思うのですが、よく考えると非常に恐ろしいことです。要するに、単細胞の動物が環境の変化によって死滅してしまうことが地球で起こった。ところがセックスによって延命したというのです。しかも染色体を半分ずつ持ち合って分解した、それがセックスの起源であると。
われわれは子供をつくるわけですが、その子供は両方の染色体を分け持っている。そこで、多様化が起こるわけです。セックスというと、風俗やらといろいろ問題になっておりますが、けっこう厳粛で、セックスの本質的な目的は多様化を進行することだ、ということをNHKでいってました。私はぎょっとなって、これからはもっと厳粛な気持ちでセックスを考えないといけないと思いました。建築でもひとつの形式で統合してしまうのではなく多様にやっていこうと思っています。
ところで、「数寄屋邑」のおばあさんが先年亡くなられ、お寺でなくここでお葬式をしてくださったんです。それは社寺の精神ではなく、まさしく数寄屋の精神です。ほかにも「ジャイロ・ルーフ」(1987年)という瓦屋さんの家をつくったりしていますが、そちらでもおじいさまが亡くなられたのですが、おじいさんは「ここで葬式をしてくれ」といって逝かれたということです。建築家冥利につきます。それにかける努力が多ければ多いほど、その人の人生に非常に深く建築がともに生きる、ということだと思います。