アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
九州の熊本でつくった建築の説明に移ります。近代化によって九州のいたるところで文学がなくなって、阿蘇のふもとの清和村というところだけが残りました。そこで、文楽劇場をつくろうということになりました。近代化が進行し、テレビが普及したこともあって、文楽は娯楽としての意味を失い消滅しようとしていたのですが、この清和村は高千穂に近いこともあって、何か神がかったところがあって残ったんですね。また江戸時代から劇場の運営が株の持ち合いによる今の株式会社のような形態になっていたためか、文楽が残っていました。それから人口が三千人ぐらいに現象したものですから、村に人が残ってもらえるように文楽劇場をつくって、それをテコにしたいというのが最初の話だったんです。
私が初めて清和村へ行ったとき、やぶれ障子の小屋に雪が舞い込んでいこに文楽をしているお年寄りが集まっておられました。私はその様子を見たとき、自分はかれらの何の役に立つのかな、と考えてしまったんです。しかし、近代化している中で壊されてきている文楽を再興する用心棒になればいいのだ、自分は用心棒になって建物をつくるだけでなく、ときにはケンカをすることがあっても、自分なりに考えた建物をつくってやればいいんだ、と腹を決めて取り組んだんですね。ここでは、自分にとって数寄屋と違う意味で勉強をさせてもらったと思っています。
西欧の近代建築が現在もどんどん発展しているその一方で、私のように雪深い里で建築をしている者がいるわけですが、自分がこういう新しい種類の近代のために建築を一生懸命することがどんなに幸せなことかということを心から感じました。この村の人と団結して、建築基準法をつき抜けてこの建物が完成したわけですが、ときどき行って村の人たちがはりきっているのを見ると、自分の建築の方向が見えてくるような気がするんです。
「清和文楽館」の展示棟の構造は、簡単にいっていしまえば傘と同じです。子供の頃、よくバットを三本使って立てて遊びました。騎兵隊の映画などでライフルを三本で立てるのを見たりもしますが、そういうことを十二本でやったわけです。集成材でなく普通の材を組み合わせ、打ち消し合う回転を重ねていくやり方で進めようとしたところ、建築基準法に集成材の大型木造のことしか説明されていなかったため、どうしたものかと役所の方に相談しました。当時は細川護煕さんが知事の時代でもあり、地方自治は建築基準法より勝るということでOK、私のデザインを通して下さいました。
中国に行って勉強した重源が、天竺様式と呼ばれる大仏殿をつくったのですが、たいへん合理的な方法で、柱と貫で組み立てています。
清和文楽館天井見上げ このような木造があるその一方には、農村の木造というものがあります。昭和四十三年まであった群馬県上三原田というところの舞台小屋づくりですが、非常に簡単なもので、丸太の両側に石を詰めた俵をぶらさげ、それを並べてボールトをつくります。それを繋げていき、上に筵を敷くと芝居小屋ができます。そして芝居が終れば、その石袋を取りはずして、まっすぐに戻った丸太を神社の縁の下にころがしておくという画期的な木造です。ただ、筵に火がついたら、みんな焼け死んでしまうではないかということで、消防法で禁じられてしまいました。私は観客が消防服を来てホース先端のノズルを筵に向けて文楽を見ていれば取り越し苦労をしないでいいのにと思うのです。素晴らしい建築が、燃えてしまうからという理由だけでつくっていけなくなるのは実につまらない話だと思います。
ところで、私は木造の勉強を学校ではしていません。学校ではコンクリートと鉄の構造ばかり教えてもらう時代で、木造は教えてもらえなかった。では、どこで勉強したのだといわれると、やはり割箸細工なんですね。割箸を裂くとまさしくミニ尺角になり、それを組み合せてワゴムで縛って、ゴム鉄砲などをよくつくって遊んだものです。製材したあとのゴミにしかならないような部分で割箸は生産されていますから、決して資源の無駄遣いではありません。国際世論の誤解で非難されても割箸はやめてはいけないと思います。
尺角は太いといわれますが、中で相対的に見れば太くもなんでもない。割箸のようにさえ見えてきます。軽量鉄骨でつくれば簡単ですが、私が清和村であえて尺角を用いたのは文楽だからです。近代スポーツの体育館ではありません。世の中のひずみ、男女の悲しい恋愛、侍がうめいている姿を表現する文楽でありますから、建物がそれと共感することが大切です。軽い構造でつくってもしょうがないのです。
月二回は公演しないと文楽がなくなるというので始めたら、今は年に二五〇回も公演しています。ところが休憩所をつくっていなかったんです。建物だけ立派で、お客さんが来なかったらかっこが悪いからなどとも考え、つくっていなかったんですが、お客さんが来ないどころかたいへん賑わって、食事をする場所や物産を売る場所が必要になってきました。「清和村立清和物産館」がつくられた理由です。
この建物は小さな三角形の集合で、全体に火打に匹敵する力を出すため湾曲させています。隅に四十五度で入る火打材ほど見苦しい材はほかにもないと思うのです。考えてみればご理解いただけると思いますが、もし法隆寺で木造を補強するためにブレースを入れたら、法隆寺ではなくなってしまいます。また、昔から門扉にバッテンを見たら、それは閉門を意味しました。中で主人は切腹しているということ。ですから役所からブレースをいれろといわれると、逆に「建築わかってるのか」といいたくなります。私も以前、役所の方に「なんだ、こいつ」という目で見られたものです。しかし、このごろは理解いてくださる確認申請課の方が多くなってきました。
円弧といえば中国建築やヨーロッパ建築ですが、この建築は中心を持つ円ではなく、その平行移動であるところが、この国のはっきりしたものを避ける曖昧さをよく表しています。円周は持っているけれども、この建築の面積はタテ×ヨコで計算されてしまう。πをさける。円周率を使わず円弧を出そうとしてやったのです。できてみると、それは奈良の寺を思わせます。何か自分がエクソシスト役をやっているような気がします。近代が封印している蓋を私が開けてしまい、そこに奈良のようなものが出てくる。せっかく近代がここまで歩んできたところにこんなことをして、私はその責任を取れないのではないかというぐらいの怖さを感じました。この建物ではブレースをやめて向こうが透けて見えるようなかたちを取っています。もうひとつ面白いところは、こちら側が平面で凸になりますと、断面も凸になっているように錯覚してしまうことです。平面が凹になっていると、断面も凹になっているように感じるのは、人間の三次元の連動性というか、違う次元の認識の連動として心理学的に面白い考察の対象ではないかと思うのです。