アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
社会的なさまざまな制度や出来事などをわれわれが注意深く厳密に受け止め、それをそのまま建築に反映していくのだと素朴に信じられていたのが、一九五〇年代までの建築のつくられ方だったように思います。
それに対して六〇年代以降になると「私の意図」ということがテーマになってきたように思います。建築家の構想、つまり「私はこういう意図」を持って建築をつくっていくのだということです。自分の意図はどのように表現できるのだろうか、ということが中心になっていたような気がします。私の意図なり、私の固有の言語、私がいいと思うものはほかの人にも共感してもらえるという幻想があった。自分が思っていること、自分が意図することを人に伝達できるんだ、と考えていたと思います。例えば磯崎新さんが「建築の解体」といったとき、磯崎さんに固有の言語が決定的に重要な意味を持ったのだと思います。
その一方で、林昌二さんは「建築は社会によってつくられる」といっていたように思います。建築は社会によってつくられるのだから、もし建築にプログラム上の欠陥があるとしたら、それは社会の機構そのものがどこかでおかしくなってきているのだ、と。たまたまそのとき『新建築』の月評を担当していたので林さんの発言はよく覚えてます。過激派が爆破事件などを起した頃でした。銀行の計算センターが要塞のようなものにならざるを得なくなっていくのは、社会の側に問題があると。つまり、そういう爆破事件を起すから堅牢な計算センターをつくらざるを得なくなってくるわけです。私は、「社会に開かれた計算センターなんてどこにあるんだ」と反論しました。「個々の住宅よりもオープンスペースのほうがさらに重要だ」とも林さんは書いていましたが、「それでは、そういう個々の住宅よりも重要であるようなオープンスペースというものを実際に見せてくれたことがあるのか」と生意気なことをいった記憶があります。林さんの「社会が建築をつくるのだ」という話は、私的な言語に対する批判でもあったと思います。
一方に〈私的な言語〉があり、他方に〈社会にかかわる言語〉があり、そのふたつがなかなかうまく噛み合ってないという感じが当時私はしていました。私的な言語が共感を得るようなメカニズムがどうなっているのか。 あるいは社会にかかわる言語が私的な感性とどうかかわることができるのか。そのあたりが自分でもよくわからなかった。そのふたつの側面は未だにうまく調停できていないようにも思います。例えば、私よりも幾分か若い建築家のつくっている最近の住宅を見て思うことは、見えがかりというか、場面というか、シークエンスというか、そういうものがたいへん上手です。この角を曲がると壁がこんなふうに見えて、光が上からこう落ちてきて、と全体がいかにも舞台やショールームのようです。住宅という生活にかかわるはずだった器がその生活のすべてを飛び越えて、生活自体をもはや基礎に住宅をつくる必要がないといった感じです。実際にそういったことを書いている方も多いようです。確かに一理あると思います。社会と建築の関係といったところで、例えば、ひとつの家族のためにひとつの住宅をつくるといってもリアリティーがない。六十年代、七十年代の家族に対して十分な信頼感があったじだいとは確かに違う。家族自体が変質してしまっているわけですから。
両親に子供、という家族の揺るぎない単位があることを前提にして住宅をつくってもまったく意味がない。家族が生活の単位としてもはや成り立っていない。破綻しているといってもいい。そんなときに、家族を中心として住宅を考えることに、私もあまり意味を認めません。といって、生活といっさい関係なく住宅がつくれるかというと、そうではないと思います。
もし家族が破綻しているとすれば、今までの家族に替わるプログラムはどうなるかということになります。そこを落としてしまうと、単純にシークエンスだけに置き換ってしまいます。もう家族はいらないんだ、と。生活に関しては、設計者がそれぞれ勝手に描くことができる。そうすると、住宅はまさに舞台になるし、ショールームのようになっていくと思います。雑誌の中で見るレベルの高い住宅と思われるものは特にそのような感じがします。住宅だけでなく、公共建築にしても商業建築にしても、最近の建築は周辺の風景との関係を強く表現する傾向にあるように思います。建築のさまざまな側面を周辺との関係に置き換えてその関係こそが建築の中心課題であるといったような方法です。もちろん周辺環境との調和は重要ですけど、それだけで建築が記述できるとは思いません。