アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
最近「パーティーとパーツ」というタイトルの文章を書きました。パーティー、これを英語で表現すると [part] と [y] で [party] となります。パーツは [part] と [s] で [parts] となります。要するに部分に [y] や [s] をつけることによってパーティーということばになったり、部品ということばになったりするわけです。
今コンピュータを買うと、DOS-V系のコンピュータには二つのシールが貼られています。一つは「インテル・インサイド」というシール、もう一つは「ウィンドウズ95搭載」というシールです。今まで富士通やIBMなどのコンピュータ・メーカーは、すべて自分のところでつくってきたというふりをしていました。ところが、現在コンピュータ・テクノロジーは、それぞれの部分が自立的に発達して、そういったような表現はもはやできなくなったのです。パーツが前面に出てくるということは、実はたいへんなことではないかと思います。
これまでのもののつくり方は、コミュニティー的なつくり方、つまり共同体的なつくり方であったと思います。共同体的なつくり方とは、いつも同じ人とものをつくっていくことです。コミュニティーは、時間的な持続を要求します。一般的な意味でのコミュニティーを考えると、そこに何世代も住んでいたり、長い時間そこにいることによってできるコミュニケーションが基本になっています。
ところが最近のもののつくり方はそうではなく、むしろパーティー的なつくり方です。私がいうパーティーの概念は、ある目的のためにいろんな人が一時的に集まってくることです。要するにコミュニティーの時間的な持続性をもう少し短くしていくと、パーティーになるのではないかと思うわけです。
パーティーは、後で建築のプログラムについて話すときに関係しますが、時間をコントロールすることによって、いろいろ概念が変わることの一つの例であるわけです。時間的な感じ方は、民族・国家、それから地域・世代によって全然違います。例えば今いったコミュニティーという概念をある人にいった場合に、若い人にとっては、非常に重い概念あって、自分に受け入れられない感じがします。 コミュニティー・スペースをつくるというより、パーティー・スペースをつくろうといったときに、自分にフィットしている感覚があるとすれば、時間的な感じ方の差がそこには存在します。ですから、コミュニティーというパーティー、そういう概念としてのパーティーがあるのではないかと思います。
もう一つ、コンピュータ・テクノロジーと思想的な問題で面白いと思うことに「体系」があります。昔のコンピュータの接続体系は、[ホスト・コンピュータ]+[ワークステーション]という体系でした。ホスト・コンピュータの下にワーカーというワークステーションがたくさんぶら下がる体系です。ところが、現在のコンピュータの体系は、クライアント・サーバ・システムといい、一つのリング状の中に、クライアントというコンピュータがずっと存在するかたちになりました。これは非常にことばとしても面白い。昔ホストといっていたコンピュータは、現在サーバといいます。ワークステーションといっていたワーカーはクライアントになっています。これは事実上、地位が逆転をしてるともいえます。コンピュータの中で社会の体系が変わっているわけです。一つ一つのコンピュータが独立的・自立的に動けるような能力をもってきたことにあります。要するに部分が自立的に動く、パーツが独立することによってこのようなパーティー的な体系になります。パーティー的な社会の体系を存在させることになるのではないかと思うわけです。
例えば、阪神大震災のときのボランティア活動は、非常にクライアント・サーバ型であったと思います。あのときは、一つ一つのボランティア活動が独立的で自律的に動きました。県知事があそこで何をしろとか、市長が何をしろといわなかった。そういった救助活動、いわゆる消防署、警察がほとんど役に立たない中、独立的、自律的に動き、それぞれのボランティア活動がきちんと自然にリンクされていました。独立的、自律的でありながら、かつリンクされる体系とは、こういった自然発生的なボランティア活動の中に存在していると思います。社会とコンピュータ・テクノロジーは一見相反しているようでありますが、体系そのものは通底するものがあると思います。