アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
今日は出がけに『新建築住宅特集』に目を通してきたんですが、その中に外壁が可動になっていて、トイレなどがすべて外側の風景にさらけ出されているような住宅がありました。和室のすぐ横にはめ殺しのガラスがあり、そこにバスタブが埋め込まれている住宅がありました。畳のすぐ横にバスタブが埋め込まれているような風景が異様なものに見えます。住宅なんて今やなんでもありだといってしまえば、そのとおりなんですけど、それでもその住宅という建築を手がかりにして、私たちの生活のルールのようなものが出来上がっているというのも一方の事実だと思います。その生活のルールそのものがもはや形骸化しつつあるんだから、そのルールに必ずしもこだわらなくたっていいじやないかということなんでしょう。住むという概念そのものが、もうどうだっていいじやないかということなのかもしれません。でもそうでしょうか。今までのルールが役に立たなくなってきたんだから、なにやったっていいんだというのも、主体性のない話だなあという気もします。可動の外壁を閉じてしまえば、もちろんトイレも風呂場も閉じることができます。でも、それではそのトイレや風呂場が周辺の風景の中にさらされるような場面というのはどんな場面なんだろう、それをこの住宅の作者はイメージすることができるんだろうか。それともそんなことは住まい手にゆだねてしまっていいんだということなんでしょうか。自由に使ってくださいというときには、その自由さの範囲はつくる側に貴任があると思います。この外壁がすべて可動になっている住宅の作者はその責任をすべて使う側にゆだねてしまっているように思えるのです。ここでもやはりつくる側の主体性が問われているように思います。主体性という話は、強引に単純化していってしまえば、今の社会をつくっている枠組みのようなもの、それと自分の意図や意志とがどう関わるかという話に似ていると思います。
社会という枠組みを、それは一方的に建築に対して働きかけるものだとする考え方もあります。建築は常に働きかけられる側です。ここでは建築家が主体性を問われる場面は一切ありません。考えようによっては非常に楽です。ダメな建築ができるのは社会が悪いからだ、制度が悪いからだ、官僚主義が悪いからだ。建築が社会の反映であるという図式を信奉する限り建築家はその社会の要請を受けて建築をつくる請負技術者のような役割を引き受けるということなんだと思います。恐らく、建築の設計者に対する一般的な見方はそんなところなんじやないでしょうか。住み手の自由に使える住宅という考え方も、社会という枠組みの反映であるという建築も実は同じような考え方なんだと思います。こうした建築に対する見方にはすでに長い歴史があって、今や建築の設計者に対して多くの人たちがそんなふうに考えているんじやないかと思います。
もう一つ違う見方があります。建築には建築の固有の形式があって、社会の枠組みとは無関係に建築家の活躍する場面があるという見方です。いわばアーティストのような建築家です。でも、そうしたアーティストのような役割も、逆にむしろ非常に狭い範囲に自らを閉じ込めてしまっているようにも感じます。公共建築に関わっていると、しばしば、そういう場面に出会います。発注者側からの注文が時としてそんな役割に限定しているような感じなんですね。今出来上がっている社会的な枠組みのようなものはできるだけ保存するような方向に発注者側の意向は常に向かいますから、それはそれとして聞いてほしい、そのかわり、設計者のアーティストとしての役割が発揮できるような場所は別に確保しますから、といったような具合です。造形作家のような、それも非常に限られた場所を与えられた造形作家のような役割です。