アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
今日のテーマの「地域社会という建築」をどう再構築していくかについてですが、私はその地域社会を再構築しないと、ピンチだろうと思っています。2025年には六十五歳以上の年齢が全人口の四分の一になるということです。自分で自分のことができない人たちが圧倒的に増えていくと思います。地域社会が崩壊しているなどとのんきなことはいっていられなくて、彼らを抱え込んでどんな社会的風景をつくっていくかが大問題だと思うんです。そのときにわれわれの出番がなかったらもうおしまいだと思います。そこで、今、なにかしら地域社会のモデルのようなものをつくることが非常に重要だと考えます。
現在、公営住宅の仕事をしていますが、公営住宅の中にさまざまな都市施設も一緒につくっていこうとすると、住宅は住宅だけで完結するようにつくられていますから、今の制度の中では非常に難しいんです。建設省の補助金でそれをつくっているのですが、それ以外の施設をつくろうとすると、厚生省の補助金や文部省の補助金が必要になってきます。その補助金をいっしょに使うのは難しいのだそうです。例えば、住宅の中に託児所を設けたりすることが非常に難しくなっているようです。
私は、単に恰好のいい住宅の集合だけつくっていてもだめだと思います。託児所があるか、老人施設があるか、そばにコンビニエンスストアがあるかなどまで含めて集合住宅を常に考える必要があると思います。その地域社会をどんなふうにつくっていくかがこれからの大問題で、そこで建築家があるモデルを提案できない限り、あいかわらず単なる技術者でしかないでしょう。
最近つくった鎌倉の個人住宅です。
ほとんどの人は、一つは個人財産として、もう一つは、自分の理想的な生活が実現できると思って住宅を買います。リビングルームがあると一家団楽できるのではないか、勉強机のある子供部屋があれば子供が勉強するようになるのではないかなど、多くの人たちは期待をふくらませて住宅をつくります。まさにプレハブ住宅のコマーシャルの世界ですが、実際につくると嘘だということがわかります。つまり、何干万円もかけて家族という幻想を買っているにすぎないのです。そういう幻想がもうほとんど破綻していることが最近はバレてきています。現実の家族は、そういう理想的な幻想としての家族と、まったく乖離しています。そんなときに、ほのぼの住宅をつくっても仕方がないという気が私はものすごくします。
ところが、この住宅の施主一家は、そういう幻想が一切ない人たちなんです。もうバランバランです。旦那さんはアンティークショップの経営をしていて、家具などを自分でつくって売っている人です。奥さんがイギリス人です。この人たちは、この住宅を家族のための住宅だとは思っていません。たくさんの友だちや地域の人が、ときには100人ぐらいここに集まります。集会所として一つは使っています。もう一つは、子供の教育装置だと完全に割り切っていて、それ以外の役割はいらないといわれました。そういう意味では住宅でありながら、開かれた一つの施設といえると思います。非常にドライな関係の住宅をつくってほしいといわれてつくった住宅です。
『新建築』には竣工したばかりのきれいな写真が載せられるのですが、この家は写真を撮る間もなく、建ったら次の日からごちやごちやになっで、その様子が掲載されでいます。夫がそこいらを歩き回っていて、そのへんに商品が置いてあって、大正時代の金隠しが飾られていたりします。きれいに住もうなんて夢にも思っていないんです。私はこれがいいのではないかと思います。つまり住宅に対する幻想がなくなっていけば、こういう住み方も十分あり得るだろうし、この人たちにとっては非常に快適な住まいではないかと思うんです。
寝室のような個室をつくってはいますが、寝室というよりも、お客さんが来たときのたまり場のように使われています。玄関が四つある家で、それぞれ勝手に表に出られるようになっています。「岡山の住宅」と同じ構成です。それぞれがばらばらに住んでいることが前提になっているような、そういう住宅です。