アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
私は、地域社会という言葉が重要じやないかと思っています。死語のようだし、古くさい感じがする。地域社会なんてもうなくなっているといういい方は正しいように思いますが、もし地域社会がなくなっているとすれば、それは再構築可能なのか、再構築の必要があるのかについて考えていくべきだと思います。
さまざまなビルディング・タイプを私たちはつくりますが、博物館にしても中学校にしても美術館にしても、施設はすべてハコの中に閉じられることによって役割を果たしています。あるものをカテゴライズして隔離していく役割をずっと果たしてきました。今あるビルディング・タイプのすべては隔離施設だといえます。相互に隔離してお互いの関係をなるべくつけないようにつくっていくのが施設です。
ですから、われわれは建築をつくるときに、その施設自体を疑うことが必要だと思います。その施設が地域社会の中にどう開かれていくかを考えて建築をつくっていく必要があると思います。そのことは今の制度になんらかのかたちで抵触せざるを得ません。開いた途端に抵抗を受けると思います。管理する側にとっては、開くことは最も危いことだからです。当然、セキュリティー、メンテナンス、管理はどうするのかという話になります。しかし、そこがわれわれの最初の出番ではないかと思うのです。
最近、ガラス建築が非常にはやっています。たぶんそれは、そういう気分の反映でもあると思います。悪いことではないのですが、ただ、ガラスを使っていれば開いているといえるかというと、どうも危なっかしい。やみくもに開いていって表に見えたらいいのかというと、そうではないでしょう。要するに開くためには何らかの手続きが必要で、その手続きというのは思想のことだと思います。思想に基づいてこそ開くのだと思うのですが、そのときに問われる思想こそが建築家の主体性ではないかと思います。われわれの側からなんらかのかたちでメッセージを発信していかない限り、建築家は単に請負技術者でしかない。主体性ゼロとして扱われても仕方ないと思います。
私自身がそうなのですが今、若い人はどのようにして社会と関わっていったらいいかがなかなか見えてこないため、非常にフラストレーションがたまっていると思うんです。しかし、建築をつくる場面の中にきっかけはいくらでもころがっていて、それを自分で探していけばいいという気がします。たまたま今日見た『住宅特集』では、その辺をあきらめてしまっているような感じがして不安が残りました。しかしその一方で、先にいったようなことをやり始めている建築家もたくさん出てきていると思います。