アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
建築家の主体性は一体どこにあるのか、と気になります。施主の側にゆだねてしまうのも変だし、社会にゆだねるのもおかしい、アーティストのような役割を演じるのもおかしいとなると、建築家は一体なにをするんでしょう。その部分がずっと解けていないような気がします。「朝まで生テレビ」という深夜番組で神戸の中学生による事件をめぐって、評論家の西部邁さんが公共空間が失われてしまっているからなのだという意味の話をしていました。聞いていてまったくそのとおりだと思いました。ほかの出演者たちは西部さんのいっている意味がわからなくてほとんど無反応でしたけれども、それは公共性ということと空間とは少なくとも私たちが思っているほどには、多くの人たちはその密接さに気がついていないからです。空間なんて多くの人びとにとっては思考の枠外です。でももしフーコーのいうように空間は制度であるとしたら、公共空間が失われているということは、公共という制度が失われていることだと思います。多くの人たちは制度の欠陥については敏感でも、その制度と空間との関係についてはまったくといっていいくらいに無関心です。空間は単に制度の反映、先ほどのことばでいえば社会の枠組みの反映でしかないと思っているからです。西部さんのようないい方をする人は少数派だといっていい。つまり、問題なのは空間なんだといういい方です。空間は単に社会の枠組みの反映ではなくて、逆にその枠組みをつくっているものなのだということを言外にいっているんじやないでしょうか。
私は、制度があって空間が成り立っているのではない逆の場面もあると思います。空間があってはじめて制度が見えてくる場面があると思います。例えば事件のあった中学校は、滅菌処理された工場みたいだったと新聞は報道していますが、要するに滅菌処理されて、欠陥商品ができないように標準化された製品を生み出している工場のようなものであったと。ということは、少し過激ないい方をすれば、学校のつくられ方は単に制度の反映ではなく、逆にそういう学校をつくるから、そういう中学生が生まれるともいえるわけです。
つまり、校舎をつくってきたわれわれの側にも責任があるかもしれないと考えた方がいい。教育の制度が悪いから学校が悪いのではなく、学校という施設そのものの問題かもしれない。その施設に欠陥があったために、教育のシステムの方がそれを反映して、非常に硬直したものになっていく、ということもあり得ると思うんです。ですから、社会が悪いから建築が悪いのではなく、建築が悪いから社会が逆に悪くなっていることもたくさんあるわけです。そういう意味では、われわれは主体性を問われているかもしれないのです。
われわれの活躍する出番が今、あると思います。単にアーティストとしてその人の個人的な才能を問われるのではなく、社会の中で、どういう関わり方を建築家がするのかというときに、その建築をつくることによって、今の制度なり欠陥がわかることもあるだろうし、よりよい方向に変えていくことも、楽観的ではありますが、十分にあると私は思います。実際にそういう場に遭遇しています。発注する側がそれを期待することももちろんあるし、発注する側と話をしていくうちにそうなっていくこともあります。
伊東豊雄さんが「せんだいメディアテーク」をつくられていますが、鉄骨のストラクチャーがいくつかチュープ状にあって、そこにスラブが浮いているような建築です。回りはガラスで覆われています。図書館であり美術館であり博物館であるような建物です。例えば、従来どおりの美術館のように使おうとしたら、せっかくのガラス張りの建築が全部壁で覆われてしまうことになります。伊東さんが考えられている建築とかなり違うものになると思います。そうすると、建築家はそこでオペレーションやプログラムに関わらざるを得なくなってきます。壁を立てて絵を飾るだけが美術館ではないはずだ、と自分なりの意見をいわざるを得ないと思うんです。つまり、建築を一つつくることによって、美術館の概念も変わるし、図書館の概念も変わっていくと思うんです。ただ、変わるためには建築家がそこまでコミットしていかないとなかなか変わってはいきません。伊東さんはきっとオペレーションの方法なりプログラムまでずっと関わらざるを得ないと思うし、私はぜひそこに関わってほしいと思うんです。これを自由に使ってくださいといった途端に、壁で全部あの建築が覆われてしまうと思います。つまり、自由に使うというのは、使う側の一方的な自由ではなく、建築家がどういう風景を描こうとしているかということを、使う側も同時に共有すべきであって、そこで新しい美術館、新しい博物館、新しい図書館が出来上がっていくんだと思います。
そういうことを考えていくと、やはり建築家の果たす役割は、まだかなりいろいろあると思います。建築家の主体性、つまり自分はどういう意図を持ってこの建築をつくっているのかというメッセージは、常に発信していく必要があります。それによって、使う人たちとともに新しい方法に変えていくことは、可能性としては十分にあると思います。