アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
本当は、公共建築のコンペティションというシステムに、私は少し疑問を感じています。このシステム自体がすごく近代主義的であり、コンペティションに勝つためには、もちろん「みんなの森 ぎふメディアコスモス」もそうですが、際立ったことをやらなければいけない。これはどなたが審査員をされるかにもよるのだと思いますが、そうやってそのコンペに勝ち、それからその案を市民の方がたへ説明しても、「いきなりそんなものを見せられても、本当にこんな建築になるのか」と、受け入れられないケースというのは結構あるわけです。「せんだいメディアテーク」はその極端な例で、最初の頃は、こんなものをつくるなんてやめろと言われるひどい状態でした。一方で、「みんなの森 ぎふメディアコスモス」の場合は、日比野克彦さんの存在があり、市民の人たちや市役所の方がたと、われわれとが非常によい関係を築くことができ、きわめて円滑に進んだ希有な例と言えるかもしれません。
正直に申し上げますと、コンペティションでは設計する人だけ決め、何も設計をやってない状態からスタートし、街の人たちと一緒にワークショップを繰り返し、そこでどういうものをつくりたいのかという話し合い案を組み上げていくようなやり方の方が新しい建築ができるんじゃないかと思っています。でも、なかなかそううまくはいきませんね。最初からある案を決めて予算も決まっているという、役所の人も安心して設計を依頼できるように、コンペティションのシステムがあるわけですから。
少し話がそれるかもしれませんが、今地方で、ある新聞社のプロジェクトを手がけています。新聞社とは、公共的な企業であると同時に私企業でもあります。このプロジェクトは、コンペティションではなく、たまたま特命でご指名いただきました。現在、コミュニティデザイナーの山崎亮さんにお願いし、住民の方がたに対して、その地方都市でもし新聞社のビルをつくるとしたらこんなものがほしい、こんなものをつくってくれたら自分はこんな活動をしたいという意見を募り、それを汲み上げながら同時にプランを設計していくという方法で進めています。公共建築でも、そういう方法ができないはずはないと思うのですが。私にとってはそれが、公共建築の設計において考えられる、いちばんよいシステムではないかと思っています。
ただ、最初にお話ししたとおり東京がどこも均質になっていくのと同様に、今の日本はすべてを均質にしていこうという方向で動いています。たとえばホールをつくろうとすると、ホールはどこでも同じでよくて、それがいちばん安心安全なんだという思想になります。それに対してもっと楽しいものはあるんだという提案を、どうすればそのコンペティションに勝ちつつ、かつ実現できるのか……そこにそれぞれの方の戦略があると思います。私はとにかく、少しでも自由にして居心地がよくて、楽しく過ごせる建築をつくることを目標としています。
確かに、私は建築に曲面を用いることが多いです。三次元曲面の建築をつくることに関して言えば、設計までは、コンピュータ技術や3Dプリンタなどにより、10年前に比べるとかなり楽にできるようになってきています。私たちのオフィスでも、小型の3Dプリンタを導入しました。ただ、施工の問題は相変わらずあります。「台中メトロポリタン・オペラハウス」では、台湾の施工技術も精度がよい方だとは思うのですが、それでも10年もかかってようやく完成しました。どんなものでも最後はやはり職人たちの手によってできるのです。最近日本では、職人もコンピュータで三次元モデルをつくり、それを片手に配筋したりしているようです。そういった、俺がやってるんだという志を持った職人がいて初めて、三次元曲面は実現するのです。
また、構造や設備のエンジニアの人とは、設計のかなり初期段階から一緒に打ち合わせをしながら検討していきます。「みんなの森 ぎふメディアコスモス」でも、構造的に合理性のある屋根の形状が、同時に空気の流れにも関わってくるということで、構造と設備のエンジニアリングとわれわれの意図が、うまく合致しました。私自身はどちらかと言うと構造偏重のところがずっとあったように感じているのですが、これからは、もう少しメカニカルなエンジニアリング、たとえば光や風の取り入れ方、空気の流れ方といった問題をどうやってかたちにしていくかということを、設計の中心に据えて考えていきたいと思っています。
私の建築の原イメージは、大きく分けてふたつあります。
ひとつは、洞窟です。私の初期の作品の「中野本町の家(1976年、1997年解体)」は、本当に外部に対して窓がほとんどなく、上部から小さな光が射し込むだけの建築です。でき上がった時には、地上にあるのに地下にあるような空間だとよく言われました。「台中メトロポリタン・オペラハウス」もまさしく、洞窟の中を歩いているような建築です。洞窟というのは、いつまで経っても外側がなくて、最後の最後に外にぽっと出る、そんな空間なのです。洞窟願望と言いますか、外部のない内側しかない建築は、私にとっての理想型なのです。「下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館(1993年)」などでも、洞窟のような空間です。
一方で、洞窟のような空間に対して、もっとさわやかなものがつくれるだろうともうひとりの自分が現れ、今度は自然の中に建つような、また別の建築の原イメージが現れてきます。私はこれらのふたつのイメージの間で、行ったり来たりしています。たとえば、「せんだいメディアテーク」のチューブがある空間は、公園の中で樹木の間を歩いていくような体験ができます。「みんなの森 ぎふメディアコスモス」では、いろいろなサイズのグローブが上から吊るされていて、その中を、外部空間を散策するような感覚で歩くことができます。
こちらのふたつめのイメージは、自然物を少し人工的なものに近付ける、日本の庭園が起源にあるように思っています。日本の庭園は、池の周りに飛び石があったり、特殊な木が植わっていたり、その間にお茶室があったり……といくつかのエレメントが点在し、その間を歩く人自身が選択して歩いてよいとされています。強い軸線が存在し、ここを歩けと決めつけられることが私にとってはいちばん嫌なことなのです。ある人が歩く体験によって、その人にとっての建築や空間がつくられていくような、それは訪れる人によってそれぞれ異なるような、そんなことをいつもイメージしています。
これは、日本の言語空間だとも言えると思っています。日本の言葉というのは、私自身もあまり喋るのはうまくありませんが、「僕はねー」とか、「明日ねー」とか、「それでさー」とか、かなり曖昧ですよね。英語は、ものをはっきりさせていく言語で、論理を重要視していますが、それに対して日本の言語は、曖昧で、論理的にならないようにつくられていると思います。もちろん、法律用語などの専門用語は違いますが、日本語の言葉の間に、曖昧に広がっているのがまさしく日本特有の「空間」だと思うのです。
また、先に申し上げましたとおり、空間とは、日本人にとってはものとものとの間のことを指しますが、対して、たとえばフランス語では空間のことをポシェ(poché)と言うらしいのです。これはつまり、ポシェット、岩などの本来全部が埋まっているところをくり貫いてできるのが空間だとされています。つまり、空間の考え方が全然違うのです。私は、広がっている領域そのものを空間と考える日本の言語空間が大好きです。というか、その日本の言語空間が私という人間そのものを形成していると言ってもよいかもしれません。ですから、英語がすごく苦手で、もう少し若い頃から英語を勉強しておけばよかったなとも思うのですが、最近では開き直って、私の建築をつくっているのは日本語の空間だから、むしろ英語は下手でよかったんだと言っています(笑)。とにかく、そういった日本の言語空間がベースにあり、それが日本の庭園のようなものに置き換えられて、私の建築としてのイメージをつくっていっています。そういう意味では、本当は、内と外が切れてしまうのが嫌なのです。「台中メトロポリタン・オペラハウス」でも、どこまでもあの内部の空間が続いていく、内部だけの建築だったらいちばん嬉しかったのですが、必ずどこかで外にならざるを得ないので、本来は続いていくべきものをばっさりとカットした断面のような外観となっています。私にとって、ファサードはそういうイメージです。
どちらも難しい質問ですね。われわれの考えは、なかなかそう簡単に相手に伝わるものではありません。伝わらないからこそ、どういうふうに伝えようか一生懸命に考えます。私は、たとえば役所の中に100人のスタッフの方がいるとして、その中でたったひとりでも私たちの考えが通じれば、よい建築になると思っています。そういう人がひとりでもいると、今度はその人がその役所の中で、周囲の人を説得してくれるわけです。
実際、「せんだいメディアテーク」の時がそうでした。最初は、われわれにとっては本当に針のむしろのような状態だったのですが、1年経ったある日、生涯学習担当課長の女性が現れてしばらくした頃に、彼女がこの提案されている建築はもしかするとおもしろいかもしれないと思ってくれたようで、そこから急にコミュニケーションがスムーズに進み出しました。その方はその後、部長になり、「せんだいメディアテーク」が完成してからは初代館長になられました。「せんだいメディアテーク」は、図書館部分だけは仙台市民図書館として自立しています。その方は館長と同時に、2年目にご自身で図書館司書の資格を取り、図書館長も兼任してくださり、ずいぶん図書館とメディアテークとの間のコミュニケーションがよくなりました。その後、教育長、仙台副市長を経て、現在は仙台市長になられています。これはたいへん稀な例だと思いますが、そういう方がひとりでもいると建築は変わるんだと実感しました。ですから、そういう人を見つけられるか、逆に言えば、そういうシンパサイザーをつくれるかどうかが大事なのだと思います。
また、建築がその場所に定着するかどうかについてですが、私のつくる公共建築は幸いなことに、どれもわりあいうまくいっているものが多いです。建築は、やはり居心地がよくないとだめだと思うのです。たとえばル・コルビュジエの建築はどれも本当に居心地がよいですよね。実際に見にいきましたが、大きなものでも小さなものでも、ここは居心地がよくないと思ったことは一度もありませんでした。それは、空間に対する素晴らしい感受性やプロポーションなど、さまざまなものが組み合わさった結果なのだと思いますが、コルビュジエがそういった居心地のよい建築をつくれるのは、彼が人間が好きだから、人間に対する根本的な愛情があるからだ、というのがいちばんの要因だと思いますね。どれだけ喧嘩をしたり、争いながらつくっていても、最終的には人間を信じて愛しているから、それが、彼のつくる建築の心地よさを生むのだと思うのです。
これは、本当にすごく大切なことだと思います。特に、東日本大震災の後、被災地に赴き、現地の方々と話していて改めてそう感じました。現地の人たちの意見というのは、普段公共建築をつくる時にコミュニケーションしているような人とは違って、生の声というか、自分たちの感覚で生きていて出てくる言葉だと感じました。そこで話をしていると、自分がいかに人への信頼感を持っていないかということを痛感します。その経験を経て、もう少し自分を変えたいと思い、今は愛媛県の大三島という瀬戸内海に浮かぶ島に通い、島の人たちと話をしています。よく、私の海外などでつくる建築は、被災地に行って「みんなの家」をつくることと、かけ離れているように思われています。本当にそのとおりなのですが、私はその違いや差を埋めるために、被災地に行っているのです。やはり最後は、人間のために建築をつくっているんだということを、もっと肝に銘じて考えたいと思っています。