アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
日建設計はここ30年以上にわたり、「社会環境デザインの先端を拓く」を目標に掲げています。日建設計は建物単体の設計だけでなく、社会課題の解決や都市計画、コンサルタント、リサーチなどさまざまな事業分野を担うため、それらの業務を統合的な視点から俯瞰する必要があります。日建設計はどのように事業を継続・継承してきたのか、もう少し深掘りしていくと「用・プロジェクト・貢献」のサイクルがあることが分かりました。社会のニーズである「用」、つまり用事があるところに「プロジェクト」が発生します。その「プロジェクト」は大抵、困難な社会課題に直面しており、それらの解決のために所員は新たな知識を習得したり、研究したり、蓄積した知見に基づきクライアントとの合意形成を得ていきます。さらに言えば、クライアントの要望に応えるだけでは不十分です。クライアントが認識していないような将来のことや社会全体にまでわたって「貢献」できるような建築を提案しなければ、今後、何十年にもわたって使い続けていただけるストックにはなりません。当然、高度な技術が求められます。そうした一つ一つを身に付けていくことで、次の「用」に対応していくというサイクルです。このサイクルをわれわれの大先輩からずっと継続できたことで今日の日建設計があるのだろうと思います。
「用・プロジェクト・貢献」のサイクル
実は、日建設計の最初期の仕事でも、この三つのサイクルを読み解くことができます。日建設計のルーツは「住友ビルデイング(現:三井住友銀行大阪本店ビル)」を建てるため、1900年に30人ほどで組織された住友本店臨時建築部という部署にあります。当時、木造主体の時代にあり「建築工事には数年を期し、充分堅固に百年の計をなす事」として住友の当主が本店建設を決定し、30年もの時を費やし1930年にようやく竣工しました。当時の日本の建設技術は欧米と比べると大きく遅れをとっていました。しかし日本人建築家が設計することに重きを置き、資材調達もアメリカに赴いて交渉するなど、さまざまな挑戦を経て竣工したと記録に書かれています。その後の、大阪を中心とした関西圏の経済は急速に発展し、住友本店臨時建築部は支店などを設計しました。本店建築の経験を次の「用」へ活かし、「プロジェクト」を生み出したのです。その後、世界的な金融恐慌で日本経済が急速に下火になると、住友本店臨時建築部の中心人物であった長谷部鋭吉と竹腰健造は、独立して長谷部竹腰建築事務所を設立(1933年)し、実績を糧に「大阪株式取引所(現:大阪証券ビル市場館)」(1935年竣工)、住友金属工業(現:日本製鉄)の和歌山や中国奉天(現:瀋陽)の製鋼所の仕事などを特命で依頼されます。厳しい経済状況の中でも経験を重ねていき、戦後は日本の復興のため建築だけでなく土木分野へも進出しました。東京タワー(1958年竣工)など、土木と建築が一体になった構造エンジニアリングの分野を開拓する一翼を担ったと言えると思います。
住友ビルディング(現 三井住友銀行大阪本店ビル)。第1期大正15年(1926)、第2期 昭和5年(1930) 新築時の写真。西横堀川に架かる両国橋も長谷部鋭吉が設計
営業室詳細
それぞれの時代や社会状況によって「用」は変化します。今の社会の「用」は、カーボンニュートラルの社会環境を成し遂げることでしょう。日建設計はこの難題にも正面から取り組んでいます。また世界の都市問題にも日建設計が貢献できるのではないかと考えています。日本の狭い国土で高密度に暮らすために開発・考案してきた建築技術は、中国やインドなどの都市でも応用できるはずです。積極的に海外に進出している背景にもやはり「用・プロジェクト・貢献」のサイクルがあるのです。