アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
日本の前衛的な建築の集団には、特に何か変わったことを行う、あるいは少なくとも叫ぶという意識が強い。外から見ると余計にそう見られます。
文明的に見ると、たまたま日本がある一時期だけ非常に豊かな経済を持てるというときに、せっかくの国をつくるチャンスを場合によっては台無しにしてしまうおそれのあることじゃないかと思います。ローマが数百年、中世のフランスが数百年、あるいはイギリスが十八世紀から二十世紀の初めまで、アメリカももうそろそろ終わりといわれたりもしますが、それぞれの文化がたまたま得たある状況に一致して、すばらしい都市をつくるチャンスを与えられるわけですけれど、日本がそういうチャンスを本当に生かして次の世代まで残る街をつくれるかどうかというのは、この数年が本当に勝負どころだろうと思っています。
芸術には国境がないというようなことがよくいわれます。そしてその場合、音楽が例に引かれることが多いようですが、私は建築の世界こそいちばんそれをよく示しているといいたいのです。すなわちそれは形が示す人間共通の秩序、あるいは伝統ということです。伝統といいますと、何か形式ばった格式あるいは規則というように思いがちですが、決してそうではありません。皆さんと話していてこれはいいなとか、あるいは街の人と歩いていてこれは気持ちがいいなっていうような、そういったことはなぜ皆んな共通に気持ちがいいかというと、秩序の感覚を奥深いところで共有しているからなんですね。そしてその共通の秩序の感覚とは、共通の過去を皆んなが共有していることによってでき上がっているのです。それ以外はなぜいいかといっても実は説明の仕様がないのです。どんな心理学でも生理学でも、ある人間が同じものをよいと共感できる根拠は、皆んなが共通の秩序をそれぞれの中に共有しているということ以外に何もないんですね。 このことが人間を結びつけ、ひとつの街をつくり、そして気持ちのいい生活を共有できる根拠なんです。
ですから、そういうことで私たちは伝統というものを、かつての明治時代の国粋主義が西洋じゃなくて日本の伝統といった、そういう狭い意味じゃない、自分たちの共通性を確認するためにやはり共通に皆んなが過去に持ってきたもの、自分たちだけじゃなく、自分の育ってきた先人からから与えられたすべてのものを共有しているという確認以外にない。そういうことが、現代の非常に激しく動く社会の中ではっきりしているというのが、逆に現代の状況だといっていいと思います。
そういう意味で、現代というのは新たに伝統というもの、あるいはもっと広く言えば自分たちの共通の過去といったほうがいいかもしれないけれど、それをいまの状況、特に建築にとっては新しい技術や社会的な条件の中で、もう一度どういう風にとらえ直すかを考えなくてはならない時代だということがはっきりしてきたときだといえると思います。
伝統は固定的なものでなく、自分たちが発見するもの、あるいはとらえ直すもの、あるいは再構築するものだといっていいと思います。これは非常にむずかしいことですし、近代の中では必ずしもなされなかったことですけれども、当たり前の人々の中の生活の中ではむしろいちばん根本になされているといっていいことだと思います。
今日お見せするスライドは、以上の前置きからいいますと、非常にささやかな、まだ非常にいたらない仕事ですけれども、私が実際にやってきた仕事の中で、たとえばどういう形で、新しい自分たちの建築のための方法あるいは意味としてとらえなおしてきたかということをお見せしながらお話しさせていただこうと思います。