アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
今日の「デジタル・ガーデニング」というタイトルは、私が最近考えてることを一言でいうとしたら、この言葉が一番いいのではないかと思い付けました。もう少しわかりやすくいうと、「建築を消したい」ということです。学生時代から、建築を消すにはどうしたらいいかと、ずっと考え続けてきました。消すということは、透明にすることだろうと考える方がいると思います。非常に即物的にいえば、建築は透明になれば消えるでしょう。また、建築を埋めてしまえば消えると考える方もいるでしょう。その二つとも当たっていて、私自身も、透明な建築も、埋めてしまう建築もつくっていますが、もう少し文化的ないい方をすると、境界を消していくことではないかと思います。建築物の回りに環境が広がる。その間の境界が消えると、建築が消えるということになる。透明なものも埋められたものも、境界がわかりにくくなっているから消えたと感じるのであって、一番正確な定義は、境界の消去だろうと思うのです。
では、どうやって境界を消したらいいかが次に間題になってきます。例えば、建築を一種のカオスでつくるカオス派がいて、カオス的な手法でつくる建築は消えてくれるのではないかと考えます。なぜかというと、環境がカオスだからです。建築の回りにカオスが広がっていて、建築自身をカオスでつくるとすると、回りのカオスと区別がつかなくなって、建築が消えてくれるという考え方です。
実はディコンストラクティヴィズムという運動が少し前にありましたが、これも広い意味ではカオス派に属するわけです。
私もカオスに一時期非常に引かれていたことがありました。「M2」では、どうやったらカオスがつくれるかを真剣に考えました。ローマから現代までのいろいろな歴史的様式をかき集めてきて、それをシャッフルして並べます。ある秩序に基づいて並べるのではなく、ランダムにシャッフルして並べます。なおかつモノが本来持っている大きさを、突然拡大したり縮小したりして、スケール上のシャッフリングもする。そういうことを積み重ねていくうえで、かなり本物のカオスに近いカオスがつくれるのではないかと思ってつくったのが、「M2」です。しかし、カオスで建築が都市に消えるかというと、やはり建築は消え切れません。人間がつくったカオスは、完全に都市の中に消去することはできないのではないかと私は強く感じました。それはあらゆるカオスの宿命で、建築だけではなく、文学でも音楽でもなんでも、人為的なカオスは、周辺のカオスの中には完全に消え切れない。なぜなら、そこに主体の意志が侵入してくるので、主体の意志を消去することはできないということです。