アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
デジタルと、ガーデニングについて三つの話をしましたが、それぞれを駆使することで、建築は消えてくれるかもしれないと思っています。「建築を消す」という言葉は非常に感覚的ですが、そういうものをもう少し客観的な手法で試みたいと最近は考えています。実例を出しながらお話したいと思います。
四年ほど前に竣工した「亀老山展望台」です。自分が大きく変わったきっかけとなったプロジェクトです。瀬戸内海にある大島の山頂に展望台をつくる依頼が私のところにさました。先ほどの慰霊碑と同様、展望台はあまり私としては歓迎できませんでした。展望台は慰霊碑よりさらにたちが悪く、景色がいいところにオブジェを建てなければなりません。建ててはならないところに建ててしまうという展望台の最大のパラドックスなわけです。建ててはならない一番景色がいいところに建てられた展望台は、建築家の原罪の証明のようなものです。そこで私は、見えない展望台というのがありえるのではないかと考えました。
現地にいったところ、島で一番きれいな山頂がカットされて、そこが展望公園になっており、トイレが建っていました。ひどい話ですがこういうのは世の中によくあります。それを見て、もとの山預のかたちに修復したい、そして修復しながら、その中をスリットのようにくりぬいて展望台をつくれないかと思いました。普通、展望台は、その環境の中にオブジェクトとして突出するものですが、土を運んできて、山頂のかたちを復元し、そこに亀裂、つまりスリットを入れて、その中に展望台をつくろうというわけです。細い亀裂を通って建物の中に入っていきます。展望台だというのにどんどん地面の中に入っていくような感じで、大階段を上ると突然瀬戸内梅の景色が広がります。
運んできて盛った土に関しては技術的に難しい問題がいろいろありました。四十五度ぐらいの急な斜度になりますので、大雨で土が崩れ落ちたりしたら、見えない展望台どころか、自然破壊の一例となってしまいますから、この上はどんなことがあっても流れないように処置しなくてはなりません。種と肥料と糸をいっしょに地面に吹きかけるというフランスの技術がありまして、それで上の表面をカバーしています。なおかつ土の表面より下の部分には、金綱でもうひとつ段状のベースをつくって、その全綱を後ろ側の躯体に結ぴつけています。そして、コスモスとハギを植えました。現在、ハギの木がだいぶ育って、本当に見えない展望台といった感じになってきています。
町長さんから、望遠鏡を配置してほしいといわれたのですが、もっとおもしろいものをつくりましょうということで、ビデオのモニターとカメラを組にして並べています。座るとセンサーが働いて、カメラが回り始め、このモニターに森の中から隠し撮りされている座った本人の映像が流れます。突然隠し撮りされた自分がどアップで映るわけですが、結構ぴっくりするんです。
私は、これを「見る」という行為についてのアートの一種だと思っています。見ることは、実は見られることと同義です。展望台は、世界を見通す装置で、哲学者のミッシェル・フーコーの言葉を借りれば、一望監視装置ということになるわけです。特権的な視点が、全世界を見通している。展望台は山の上の特権的な視点から世界を見通して、自分の特権性を確認する装置なのです。
構造的にいえば、自然に対する人間の特権性を確認する装置です。ところが、そういう特権的なポジションは、非常に弱いポジションでも同時にあるということです。この展望台でやろうとしたこともそういうことで、山の上に立って世界を見通しているつもりになっているけれど、見ているということは、見られるということでもあることを、機械を通じて人ぴとに提示することを仕掛けてみました。
展望台の底の階段には三百名ぐらいが座れるようになっていまして、音楽会や演劇などにも使われているスペースです。