アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
熱海の切り立った丘の上に建っている建物です。エッジのない水面、水平の深い庇というこの二つのエレメントで空間を規定していき、その間に透明なエレメントをいくつか挿入していくことを考えました。一香重要なのは、床のデザインです。床、家具、天井、すべてガラスです。ガラスの壁を二つの水平面の中に挿入することで、回りの環境と内側の主体の関係性は、床によって強く規定されることになります。
敷地を見にいったときに、隣の敷地の奥様が「建築の専門家の方なら、私どもの家をご覧になるとおもしろいですよ」と声をかけてくださって、いってみるとなんとプルーノ・タウトの作品だったんです。ブルーノ・タウトは、日本に三年間滞在した際、正確にいうと二件の住宅を設計していますが、純粋にタウトの設計といえるのはこの「日向邸」だけです。
さっそく中を見学させていただいたんですが、タウトはそこで桂離宮をやろうとしているんです。太平洋をどう見るか、庭をどう見るかを考え、中の空間を構成していくわけです。建築物のかたちではなく、環境と自分との関係をどのように規定していくかを、その住宅で実験しているのです。彼は桂離宮論を青いていますが、「桂離宮においては、建築よりも庭が主体である。建築は庭を見るための道具に徹している。それが非常に新しい考え方だ」といっています。
私はこのタウトの発見が、たいへん大きな意味を持っていると思います。当時、コルビュジエやミースといった建築家が台頭していましたが、形態の作家であるコルビュジエやミースを超えたものを自分はやりたいと、タウトは思っていました。そして偶然訪れた桂離宮を見て、自分のやりたいことを発見し、それを現代的なかたちで実践したのがその住宅だったのです。当時の日本の近代建築運動も、コルビュジエやミース流の、白い幾何学的なハコを求めていたのですが、タウトはむしろ白いハコではなく、環境と人間との間係をすでに考えていたわけです。それで、庇を出してみたり、桂離宮のような雁行プランをやったりしています。それは実験的でしたが、当時は無視されました。
そのタウトの作品の隣にあるのが僕の作品です。ステンレスのルーバーで庇を深く出しても、面でつくってしまうと非常に暗い空間が庇の下にできてしまって、先ほどのデジタル的空間、境界のないような空間、ピクセルに満ちたような空間というのはなかなかできない。そこでルーバーの天井を考えてみました。朝日が昇るときは、ガラスのテーブルとガラスの椅子と水面の境界が本当にわかりません。椅子は合わせガラスでつくっています。
「水/ガラス」でテーマとなったのは、床や天井などの水平面の構成による環境と主体との再定義でしたが、ここではピクセル状の光の空間をメインテーマにして、天井のルーバーでいろいろなことを試みています。
「水/ガラス」の場合は、厚みが2ミリ、高さが75ミリで、幅が75ミリのステンレスのルーバーの向きをいろいろ変えながらつくっているのですが、ここでは全部アルミでやっています。15ミリ×40ミリのアルミの型材を、ピッチを三種類用意して、その三種類のピッチと向きを使い分けながら、ピクセル状の光の状態をつくりたいと考えました。ストライプ状につくったトップライトと下のルーバーが、いろいろなかたちで干渉します。その干渉によっていろいろな光の状態をつくることにチャレンジした空間です。
水にルーバーが映ります。二つの水平面以外のエレメントをなるべく消していきたかったので、上の水平面、すなわちルーバー状のルーフをサスペンション構造で吊っています。「水/ガラス」のルーバーは全部パネル化してからとりつけていきますが、この場合には、15ミリ×40ミリのアルミの型材を、ストリンガーという部材で取りつける手法をとっています。そのほうがフレキシビリティがあるわけで、どんな天井の形状に対しても柔軟に対応していきます。
上の水平面がサスペンション溝造なのに対して、床の水平面はキャンティレバーを多用しています。先端で150ミリ、根元が700ミリの10メートルのキャンティレバーです。もちろん普通には持ちませんから、PSを入れて引っ張っています。環境と人間の関係を床面を使って定義したいときに、キャンティレバーは自然に出てくる発想です。ライトはそのようにして、キャンティレバーを使っています。
二年ごとにあるアートの祭典で、1995年に日本館の空間デザインを頼まれました。普通は建築家がデザインするのではなく、日本館の既存の建物があって、その中に適当に作家の作品が並べられるのですが、このときは、数寄が日本館の全体テーマだったものですから、空間抜きには考えられないということで、私が指名され、日本館の空間全体の構成をやらせてもらいました。
日本館の建築自身は吉阪隆正さんの作です。1955年にル・コルビュジエのもとから帰ってきた吉阪さんの最初の仕事がこの日本館です。イタリアのビエンナーレ当局からは屋根瓦がのった日本風でということで頼まれていたのですが、吉阪さんはそれを拒絶し、自分の信じるところの日本風の案を通してしまいました。
そのひとつがアプローチです。ビエンナーレ会場のメイン道路から雑木林の中を歩いて建築にアプローチするのです。フランス館、アメリカ館などのほかの建物は正面から素直に入る常套手段をとっているのに対し、日本館だけがわきから林の小道を歩いて入るようになっています。私たちは、数寄屋の茶室の露地のようなことをやりたかったんじやないかとすぐわかりますが、美術関係者はこのアプローチのせいで日本館は人気がないといって、何十年間も壊せといわれ続けているらしい建物です。
もうひとつ、建物の屋根に穴を開けています。トップライトではなく、本当の穴です。床にも穴が開いていました。雨も風も虫も、上の穴から入ってきて、下の穴からピロティの下に抜けていくというのが吉阪さんが考えたことなんです。そのようにして建築と自然を一体化したいと考えられたんです。しかし、何億円という作家のアートが置かれている中に、雨、風、虫が入ってくるのは問題があるということで、すぐに閉じられてしまいました。
私はそれらの、吉阪さん流の「日本」がたいへんおもしろく、私もその延長をやろうと思いました。
まず、林の中に白木の板を張って廊下をつくりました。その同じ廊下が建物の中と外をつないでいます。中も外もないひとまとまりの庭としてすべての空間を考えようというわけです。
建物の中には水を張りました。水の中を歩くという提案もしました。自然を足の裏という身体性で感じるのが日本だと考えたのです。しかしビエンナーレ当局に反対されて、結局、白木貼りの廊下に変えました。アスファルト防水をして、その上に廊下を置いていきました。
この日本館はたいへんな評判を呼び、入口に長い行列ができました。韓国出身のビデオアーティストのナム・ジュン・パイクに「桂離宮をやりましたね」といわれました。真ん中に池があり、コーナーを回ると違う景色が絶えず開けてくるその感じがそうだというのです。自分の考えが、客観化されて理解された感じがしてたいへん嬉しかったです。