アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
デジタルという概念についてもさらに三つの手法に分解できます。一つは、今の時代の空気がデジタルという言葉で表現できるようになっているということです。最近、アメリカの友人のグレッグ・リンが私について書いてくれた文章の中に、「隈の建築の中では、すべてが液状化してる」とありました。液状化は、今の時代の空気の特徴です。われわれはすべてが液状化しつつある時代の中に生きている。その液状化している雰囲気は、例えば「コンピュータの画面に感じられる雰囲気」ともいうことができますが、そうした時代の雰囲気を建築化することができないだろうかと考えています。液状化したものは、境界が非常に曖味で、モノとして消えた状態に近いと思うのです。
ルーバーを使うことにより、光を粒子化して、その細かい粒々の光によって、その光の満たされる場所としての建築をつくることは、液状化の最たるものだと思います。一個のオブジェをつくって、環境の中にそれを突出するのではなく、光の粒子をつくろうということです。光の粒子をつくるためにルーバーがあるわけで、ルーバーが目的ではありません。光の粒子の状態をつくりたい。それは、今の時代のわれわれを支配している空気が、そういう性質を帯びているのではないかということです。
二番目は、デジタルが、カテゴリーを取り除く働きがあることです。例えば、コンピュー夕の中に情報をインプットする際、文字情報も映像情報も全部がビットに換算されて、等価なモノに扱われます。こういう体験は人類の体験の中ではあまりないわけで、情報にはカテゴリーがあるとわれわれは今まで思っていました。ところがすべての情報がビットに換言できるとなったとたんに、世界がかなり違って見えてきたと思います。
カテゴリーのない世界を、コンピュータは扱ってくれる。その手法がいろいろなかたちで建築に応用できる。造園とオブジェのカテゴリーを切るのもそうですし、最近よくありますが、文字情報を建築の中に入れていくのもそうです。ガラスに文宇がいっぱい刷ってある建築がありますが、今までは文字情報であって造形の情報とは違うと思われていたものを、同じカテゴリーにぶち込んでいるのです。この発想はまさにデジタル時代の発想で、それ以前にはわれわれはそういう発想を、具体的なかたちで実現することができなかったのです。
三番目は、実際に建築あるいは環境をつくるときに、コンピュータの技術を使って、われわれの体験や意識を直接的に操作することができるようになっていることです。これは『新建築』を見てもなかなかわかりません。『新建築』は写真というかたちで記録してしまいますから、そこの中にどういうシークエンスや空間があるかはわかりにくいのです。これは二十世紀の建築メディアの持っている弱点で、二十一世紀にはかなり変わると思います。環境とは視覚である、というのが二十世紀だったのですが、二十一世紀には、環境とは視覚だけではなく、もっと全体的なものになります。そのときに、電子技術を使って環境そのものを操作することができるようになります。例えば、音の環境、匂いの環境、光の環境を、写真には写らないかたちで直接操作することができるようになります。これは電子技術の大きなメリットだと思います。CAD、CGなどを電子技術と呼んで、われわれは思い違いをしているところがありますが、それは電子技術の中の小さな部分です。われわれの体験全体を操作可能にするところが、電子技術の大きなパワーなのです。
そんなことを今プロジェクトで実践しています。竣工してから写真でお見せしても、写真に写りませんからわからないと思います。
モニュメントの設計を頼まれたのですが、オプジェクトが環境の中に突出する慰霊碑はデザインしたくありませんでした。そこで、慰霊碑というメディアを使って昔の人を思い出すのではなく、昔の人のメモリーに直接的にアクセスできるようなものを、公園というかたちでつくりませんかと逆提案しました。その公園の中を歩き回る行為の中で、昔の人のメモリーを引き出すことができるようにしたい。そのためにコンピュータを使いました。
例えば、タッチパネルでおじいさんの名前を呼び出すと、おじいさんの情報がまず文字情報あるいは映像情報で流れてくる。さらに音の情報でも流したい。その場所で祀られる人は数百名の単位なので、現代音楽の作曲家に、ひとりひとりに対応した音楽をつくってもらいました。Aさんを訪ねていくと、まずAさんの音楽が流れます。Aさんを訪ねてきた人の足音もコンピュータによって合成されて、音楽が次々に変形しながら流れます。そのようにしてインタラクティプな音環境がつくられていきます。
そのほかに、風の仕組みなど、コンピュータ技術を使って、そこの環境全体を立体的、多層的にデザインすることを試みています。