アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
先日、廃校になった新宿区立牛込原町小学校の鉄筋コンクリートの校舎を使った「アートイング東京2001」という、とてもいい展覧会がありました。かつての教室や体育館など、学校がもっている空間をそのまま使って、日本の若手作家が展示を行っているのです。作家はたぶんその学校にいって、その空間を体験して、何かに触発され、そこで何がでさるのか考えたと思うのです。その空間を生かしながら作品をつくることで、空間と作品が対等な関係になっていました。
たまたま同じ日に横浜美術館に奈良美智さんの展覧会も見に行きました。この美術館の展示室の床はもともとカーペットなのですが、今回はカーペットを剥がして、コンクリートの下地をむき出した状態での展示でした。そのくらいしないと、展示空間として使えないと奈真さんは思ったのでしょうね。運営の側が使えないのはでなく、学芸員が使えないのでもなく、ただ単に作家がこのカーペットを張った展示室で、何かをしたいという気にまったくならなかったということです。
ほかにも何人かの件家に聞いたのですが、あの美術館で展示をする気にはならないという声が圧倒的でした。美術館というのは、何かをつくることに棒げられた空間ですから、つくるという行為を誘発する空間でなくてはいけないと思います。こういう展示をしてくださいとか、こういう鑑賞をして下さい、こういうものをつくってほしいといったことを最初から規定しているような空間は、美術館として難しいのではないでしょうか。
青森県立美術館は、どういった展示室にしたらよいが、という発想から出発してはいません。土と構造体が噛み合う、その隙間をどうつくっていったらいいか、というところから設計は出発しています。今まで僕たちが美術館をつくるとさに欠けていた視点は、空間はつくる人、何かをやる人のためにあるということとです。そして、その空間が、つくることと対等の関係にならなければいけません。そういう視点が欠けていたのではないかと思います。
いくぶん陳腐かもしれませんが、ディズニーランドと原っぱ、この比較でも同じことがいえます。ディズニーランドの場合、人はどうすれば楽しくなるかということを考えることが設計の出発点です。ですから、その気持ちをつくるための仕組みを徴底的にシミュレーションすることが重要となります。
それに対して、原っぱはディズニーランドと対極の関係にあります。シミュレーションなどは、まったくやっていません。僕の子どもの頃の原っぱというのは、土管が転がっていて、ところどころに草が生えていて、鉄条網もあったりする場所でした。何かをつくるために一回整備されてはいるんだけど、実際に何かをつくる段階には至っていない、放置されている空間。いい換えれば、人工的な何らかの法則に則って整備はされているけれど、そこにあった当初の目的が消えつつある状態の空間です。
子どもの頃を思い返してみますと、原っぱも、遊園地も、ともに遊びにいく場所であり、楽しいところ場所でした。原っぱでは、そこでさまざまな遊びが開発されます。風邪などをひいて原っぱに行けない日が続くと、たちまちみんなが遊んでいるその遊びがわからなくなってしまう。日に日にルールが変わっていってしまうのが、原っぱの遊びです。遊園地は毎日行くところではありませんが、いつ行ってもそれなりに楽しむことができます。たぶん、どちらがいいということではなくて、おそらく僕たちが遊び場に限らず、まわりの環境を考えたときに、このような二種類の場が必要なんだと思います。今の建物は、美術館に限らず、多かれ少なかれ、ディズニーランド化していっています。しかし、僕は、原っぱに近い質をもった建築をつくっていきたいと思っています。
原っぱに近い質の空間は、どうしたらでさるのでしょうか。ひとつのヒントとなるのは先述した採石場のようなところでしょう。ある目的のために演出されていてはいけないのです。ですから、青森県立美術館の土の空間も、土を塗るのではなく、型枠で土を固めて、それを積み重ねなくてはいけないと思うのです。塗ると、そこに塗った作為が見えてしまいます。それに対して、型枠に入れてそこからできてきたもの表面に、僕らのコントロールは及びません。塗るのではなく型枠でつくった方が、同じ土でも、そこで何かをやってみたいなという気分になるのではないかと思うのです。