アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
この間、ある衛生陶器会社の論文によるコンペティションの原稿を読む機会があったんです。専門分野、学生、一般と分かれていて、「二十一世紀の水回り」とか「二十一世紀の住居について」というようなテーマの懸賞論文の審査員をさせていただきました。その論文を読んでとても不思議に思ったのは、二十一世紀の水回りの提案にどうしてか、どうも人口が集中した大都市の、一人の居住面積が非常に狭いところの提案がたくさんあったことです。
たとえば浴室、小さな浴室しかない。それもゴム状にできていて部屋の中にあって、広々と入りたいときのため、まわりの素材が少し仲びるような材料になっているとか、さらに何もしないでいる間にあっちこっちからシャワーも出てきて体をきれいにしてくれるマシーンであるとか、きょうウンチをしたら、便を分析してこういう栄養が何が足りないからこんな薬を飲んだらいいとか、どこどこが具合悪い、あしたからこういう生活をしたほうがいいとかいうデータが出てくる便器をつくってほしいとか(笑)、非常にテクノロジカルにそういうことを高級化することだというような原稿がほとんどでした。
私たちは、そんなに技術に振り回されて豊かであるはずがないのです。その原稿を百編あまり読んでいるうちに、本当に豊かになるというのは逆に貧しくなることのように思えて、ぴっくりしてしまったんです。そういうものというのは、どうも密集して住んでいる街の集合住宅は確実にそういう方向に進んでいる。しかし、この方向しかあり得ない末来なんてつまらなすぎる。
中には、本当に少数でしたが、田舎に住んで、東京にはない広いリビング的な浴室を持ちたいという学生の論文もありました。密集地でも開放されて過ごす案がほしかったのですが、見あたりませんでした。
地方に行くと、みんな瓦屋根なのに、西洋風のカタログハウスが一戸埋まっているところに出くわして、何でこんな広い敷地にこういう家が建つんだろうとびっくりします。でも、そういう動き方もひっくるめて、どこか、みんな同質なものに向かっているというか、異質なものを排するという感じが非常にするわけです。
いま東京は非常に空間が狭くて貧しいのにみんなが集まってくる。原因の一つには、都市化のシステムに組み込まれるためというより、次々に変わっていく舞台装置があって、その中で何かパフォーマンスすることの楽しさがあって若者が集まってくるんだろうと思うのです。その舞台装置の中で自分の内なるものを秘めてドラマをする。街というのは、異物に出会う場だと思うんですね。そういうエキサイティングできるような異質なものに出くわせる空間が、アパートメントの内部の空間には全く見出だせないのに、東京の街の中にはあるから、若者にとって都市が面白いんだろうと思う。都市住宅は都市空間に逆行するように閉鎖化と同質化の方向に向かっているといえます。
この同質化と異質化というのが、いま私にとっては大きなテーマなわけです。
藤沢市の湘南台の地域は、区画整理されて商業地域になったため、駅の周辺にはコンクリートのアパートが建ち並ぴ、あたり前の町になっています。そこで湘南台文化センターを異物だと思うのは当然なことです。
私は湘南台文化センターで、美術家とか音楽家とかの人たちの集まりから呼び出されたとき、画家だという方から、「こんな見たこともないような建築をつくられるのは迷惑だ。あの辺に建っているアパートと一緒のコンクリートの箱をつくってほしい。まさに近代建築として建築家がつくってきた均質空間こそ、私たちには使いなれたものである。こういう特異な風景をつくるのは非常に迷惑である。普通のものをつくってほしい」というような話がありました。私は、そのときから異質性と同質性というものについて一生懸命考えているのですけれども、まだ結論があるわけでありません。
この質問には、なかなかうまく返答はできませんでしたが、私は「地方の時代」という言葉を十数年前に聞いてから、どんどんそれが逆になくなっていく状況を見ていて、その都市の中に異質性を取り込んでいけるような空間がないのが原因だろうと思うわけです。
長い間、近代化を目指して合理化する中で、たとえぱビジネスホテルというものがずいぶんつくられました。ホテルといえば非日常的な体験をしたいところなのに、何でこんな貧しい空間に寝なくちゃいけないんだろうと思っている人もずいぶんいると思うんです。アパートメントだってそうです。一戸建ての屋根を持ち、ひろがる空間を持つものを家としてきた私たちが何でこんなみんな同じような平面と天井高の中に住まなくちゃいけないのか。オフィスビルでもそうです。超高層ビルの中で設計事務所をやっている人のところに、急用があって日曜日に行きました。そしたらエアコンがとまっているので、小さなアンカを足元に置いてコートを着てやっているのを見たことがありますけれども、何でそんな不自由なところで徹夜をしたり、日曜日まで働くような仕事をしなくちゃいけないのか。
私たちの仕事の中には、本当に天井が高くて開放された気分の中で仕事をしていなければできないような人もいるでしょうし、もっともっと集中して、ひざっ小僧を抱えるような空間で論文を書けばいい人もいるでしょうし、「仕事」というのだっていろいろな空間があったらいいはずで、ビルディングの中もいろいろな天井、いろいろな空間であるほうが本当は合っているはずなのに、同質化イコール合理化としている。
肉体的に精神的に弱っている人間の入る病院すら、経済観念がすべての建築をつくり、病人を押し込めている。住宅以上にやさしい豊かな空間でなければならないのに……。
住宅も、ますますカタログハウス化しています。多様な時代に合わせていろいろな部品を用意して、いろいろな階段があります、丸いのもまっすぐのもありますとか、そうなってはいるのですが、それもひとつのヨーロッパの様式のまがいものみたいなところで同質化している。近代化というのは、合理化を目指す中でずいぶんたくさんのことを排除してしまって、同質化してきた。
でも、この同質化というのはいま起こったことではなくて、同質化することによって集落や町並みをつくってきたように、建築だけではなくていろいろなことがそういう方向にあるようです。政治とか経済とかも非常に保守的になっているように思えるのは、同質化へ向かっているからだと思うし、みなそういうところに行ってしまう。「地方の時代」とかいって、地方にある豊かさまでその均質の中に取り込んでいくことで、ずいぶん大切なものを失っているような気がするわけです。