アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
私は、長い間住宅の設計をしてきました。初めは友人や身のまわりにいた人の小住宅を設計していたので、比較的に若いご夫婦といったクライアントたちでした。ですから彼らは二人の人間がそれぞれ違う人生観や考えや、多少の経験の違いを持って一緒になり、そこに私も参加して共同作業をするということだったのです。
たとえぱ、いちばん初めのころの仕事で「鴨居の家」というのがあって、これは私と同じ歳の友だちの家なんですけれども、その次にその方のお兄さんの家である「柿生の家」をやって、その二つを見てさらにそのお兄さんが、「子供の空間を長谷川逸子につくらせたい」といって、チルドレンズクリニックである「徳丸小児科」を設計させてもらったわけです。その三人の兄弟が集まると、規模もみな違うし、最初のなんか大変なローコストで金融公庫と持っているお金だけでつくったし、次のお兄さんのときには坪単価が一○万円ぐらい高くなったし、さらに徳丸小児科となるともう少し高かったわけで、全然コストも違うのに、三兄弟が会うと「自分の家が一番いい」といい合うと聞かされるんです。
てれくさいんですけれども、それは住み手が参加し、共同作業をしているんだから当たり前で、彼らが住むためにつくっているんですから、私のクライアントは、私がどんなに自分のテーマを引っさげていってねじ込もうとしても、そう簡単には引き受けてくれるわけはないのです。
そんなことで住宅をつくってきておりますから、やはり公共建築であっても市民であろうとも参加できる人には参加してもらって、その地域に根差したものにしたい。、あるいは自分たちも設計に参加したんだとか、この建築はこういうテーマでできているということを一言でも聞いていただいたほうがいいと思います。
公共施設であろうと、でき上がったときにいつまでも「これは長谷川逸子の作品だ」というような作品性を残すよりも、市民の人たちが、自分たちが参加したから、みんなが認めたからできたんだというようにみんなのものになって、表面的には長谷川逸子という作者性が無名になることが、私のねらいです。
住宅設計の延長線上で考えたいと思った湘南台文化センターにあっても、この共同作業を何とかしてみたいと思いました。住民との話し合いを通して、一つの地下の空間のために大きなモデルをつくったり、あるいはそれに近い空間があると出掛けていって写真を撮ったり、さらに心配している人にはご同行いただいたり、一年間そういう仕事をしていて、私はついに設計図を一枚もかきませんでした。それまでは、七人ぐらいしかいない事務所ですから平面とか立面は私がかく役目でしたけれども、去年から、私はついに図面をかかない人になってしまいました。私は市民との打ち合わせ係です。そしてその打ち合わせした結果を事務所に持って帰っては、エスキースのモデルをみんなにつくってもらい、また出掛けていってはほかの意見を聞いてきて、それを反映する。そういうことを繰り返していたわけですけれども、その結果できたのが、あとでお見せする模型です。そういう集会に行くことを、私は建築家の友人たちからすごく反対を受けました。しろうとの意見を聞くことについて「この作品は結局壊されてできなくなるよ」「できるんだったらそんなことは前からやっていた」「プロフェッショナルを通すためにそういう集会は開くな」と。公共建築をやった経験のある私のまわりの先輩は、そういいました。にもかかわらず、私は断念するわけにいかずに続けました。
まさに住宅設計のやり方を強行したわけで、これからもこんなことをくり返せるかわからないですけれども、とにかく住宅のやり方を延長してやったわけです。そして地鎮祭の日、思いがけなく集会で私をいじめた市民の人が多勢やってきてくれました。その日、この一年でたくさんの理解を得られたことを知り、感激しました。
いま日本の都市は、東京と同質化していくという方向を避けるために改めて何かに取り組まなけれぱいけないということで、「新しい自然を求めて」というテーマは、多分市民が同意できるものだったんだろうと思います。市民集会を通して、公共建築こそきちっと考えたコンセプトを引っさげていかなければ、本当に強いカで壊されてしまうということをつくづく感じました。
そして、市民の人たちは住宅を考えるのと一緒で、何でも受け入れてもらえるだろうと勝手に予測します。住宅をやっているときにも、クライアントはそのとき思いつくことを山ほど並べていってきます。私が初期の七○年代にやった予算的にも厳しい住宅のようなものは、もう自分の住宅が二度と手に入らないと思って、厳しければ厳しいほどたくさんの要求を持ってきます。その要望を全部引き受けたからって、住宅というのはでき上がるものではないんですね。
湘南台文化センターでも、そういうことをつくづく感じました。二○○人いたら二○○人がそれぞれ、違うことをいうわけです。全部を引き受けることはできないのですが、住宅をやっているときにも、こういう部屋がいい、ああいう部屋がいいと、間取り戦争みたいなことを施主がやりだすわけです。私はそれを見て、これはやっぱり何もつくらないほうがいいと思って、すごく積極的な意味で「インテリアはがらんどう」だという提案をしたことがあるんです。
つまり私が小住宅をやっていた七○年ぐらいの状況は、住宅産業がいろいろ動き出していて、次々に新しいことが古くなっていく。住まい方の提案でさえも「都市住宅」から「ニューファミリー」とか、たくさんの言葉が出てくる。でもすぐ古ぴてしまうというような状況で、インテリアをつくり上げてもこういうスピードのある時代にはだめなんではないかという感じがしていました。ですから、住宅では予算がなくて壁とか天井とかは安物でしたが、床だけはいつも高級なフローリングを張りました。はいはいをするような子供がいて家をつくりたいということが多かったので、床は家具のかわりだという感じで、女も子供もそこにすぐ座ったりするのを見ていて、座としての床だけはつくりました。あとはできるだけがらんどうでいい。「これが、いま私の提案できる積極的なものだ。その床に自由にインテリアをおつくりください」。そう私は小住宅のクライアントにいいつづけたんです。快適という言葉であるものを全部埋めていくと、結果的にはそれは快適ではなくなるという感じがします。
私たちは、小さいときにはお正月のおせち料理を、本当に一年に一度食べるごちそうとしておいしかったのですけれども、いまではいつでもいろんなものを食べられる。毎日お正月をやっているようなもので、もはやお茶漬けがいちばんという男性もいらっしやるでしょう。マイナスの中にプラスが一個、二個あるときプラスであって、全部プラスに置き換えたら、これはプラスではなくてナッシングなわけですね。どうもハレのものだけしつらえると、もはやハレではなくなってしまう。ケの空間とハレの空間があってバランスをとっているわけで、私は建築にはどこかで完成している部分と末完成の部分がなければいけないと前から思っています。また、公共建築は目的完結型で、実際に目的があってやってくる市民のための閉鎖空間であるのではなく、目的もなくブラッとやってきても参加させてくれる空間でなければならないと考えています。
当初コンペに入賞したときの理由に、「長谷川逸子のインテリアにはフレキシビリティがあるから」と、審査員の言葉に書かれていましたが、それも私のひとつのテーマです。いつも住宅でそういうことをテーマとして考えていたのですけれども、今度湘南台文化センタ−をやって、まさに多くの人が満足するということはあり得ないと実感しています。一○○人いたら一○○人の異なるセンスの集合が必要です。住宅というのも人生の出来事を引き入れる空間をつくることですが、公共建築も不特定多数の人を引き受ける大空間なわけです。
この間私はあるシンポジウムで湘南台文化センターの話をしたんです。そしたら全く違う分野の人から、「この建物はナメクジと鳥の構造を持っている。家の中をナメクジのようにはいずり回って、人々が求めているものを満足させてあげようと思っているかと思うと、鳥のように上のほうから眺めている」といわれましたが、自分のやっていることはそんなことだろうといまも感じています。
私は、いまできるだけ自分のやり方をしようとすると、どうしても女性的な発想といわれるわけですが、それだけではなくて、自分の中でずうっとつながってきた建築のあり方というものも意識しています。
私の母は、値物が好きで野の花をよくスケッチする人でした。一力月に一度お墓参りとかにかこつけて、山と海のある町でしたから、山のほうへ出掛けるんです。私たちも小さいながらついていくと、私はいつも自分の部屋から見えるその大きい山が本当に小さいディテールでできているということを、一力月に一度確かめさせられているような感じがしていました。
もう一つ、私の町には海があって、「どこの町の港よりもいちばんすばらしい」と平気でいってしまうのは、そんな印象が私にあるからで、太平洋を臨む駿河湾の小さな港ですけれども、そこのところで大きな空間というのをいつも遠くに眺めていたような気がするのです。
私は、そういうナメクジと鳥を小さなときからやっていたみたいで、いまでも建築というのはいろいろなことが複雑にからみ合って、小さなことだけでもできないし、大きな間題もあるし、非常に男性的なるものも女性的なるものも必要で、どうもそんなことが一元的にはできない仕事だと思っているわけです。
そんな中で、私は自分なりの方法で湘南台文化センターができ上がればいいと思って努カしているところですが、少し規模が大きくて、施工するという間題が今後に残されているわけです。どうもそこの部分でも、設計事務所のボスが女であるということはまず異物であって、私のスタッフは二○代で公共建築は初めてという、新米どもだという異物だし、現場の所長さんが地鎮祭のときにいみじくも「どうも建築ではない建築をつくらされているようだ」とあいさつをされましたが、みんなそう思って異物扱いされながら工事が始まっています。
東京みたいな都市がずんずん藤沢のほうまで広がっているのですが、そういう近代建築の硬質な空間をもはやひとつの古い地形と見なして、いま湘南台文化センターをあの都市に埋め込む。そしてそのことによって、多分まわりに及ぼす影響というのはすごいだろうと思う。小さな住宅を一個つくっても、その周辺に非常に大きな影響を及ぼすのだから。建築は建築の間題ではなくて大きな環境の間題になってきていると思うんです。そういう新しい都市感覚をたずさえた建築に積極的に取り組んでいるんだという意識の中で、私は湘南台文化センターをつくり上げたいと思っているところです。
こんなところで、あとはスライドを見ていただくことにします。(拍手)