アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
僕は大阪の豊中というところで生まれまして、豊中二中から北の高校を出て京都大学にいくという、まあよくあるコースでそのまま18の時まで大阪にいたわけです。それから4年間京都にいきました、ちょうどその頃、今から考えると信じられへんぐらいに景気が悪く、石油ショックの後で就職難でした。京都大学で僕らは90人の定員やったんですけれども、90人の中でたしか就職ができたのが18人くらい。45人が一応大学院の定員で留年している人がいましたから40人くらいは大学院に逃げたかと思いますが、後はほとんど留年しまして、大手5社はおろか、ほとんどまともなところは採用ゼロでした。1954年生まれなんですが、隈 研吾、小林克弘、團紀彦、早稲田大学出身の古谷誠章君とかが同じくらいの世代にいて、大江匡君なんてのが北野の同級生でした。僕らの世代がかたまってぼつぼつ出てきたのは、何も志が高いとか能力があるとかいうことよりも、就職でけへんかったんでそのままひとりでずるずるやってるところがあるんと違うかなという感じがしています。大学出るとき就職もないし、大学院にいこうかなと思いまして、たまたま縁があって東大にいくことになり、東京に行ったのが1977年。ですから、1976年の秋に東京へいこうか、京都に残ろうか思い悩んでたんやなあと、さっきちょっと御堂筋を歩きながら思ってました。
1976年というと13年前なんですね。13年もたってしもうたんかなあという感じがすごくあります。 最近13年というのに、また意味があるんやないかなあと、僕らの世代でいうてて(『建築文化』の隈君との座談会)、それが大方の他の世代の顰蹙をかっているんです。54年の前が1941年で、この1941年生まれというのが物凄いきら星のごとく建築家を輩出した年代で、安藤忠雄さんを初めとして伊東豊雄さんとか長谷川逸子さんとか毛綱殻曠さん、六角鬼丈さんとか早川邦彦さんとか。ともかく図らずらっと並べるとだいたいが1941年生まれなんです。僕が1967年に京都にいてようか東京にいこうかと思っている頃に彼らは僕とちょうど同じ都市やったんやなあと思いました。1941年のさらに13年前というと1928年になります。1928年は槙文彦さんとか林昌二さんとか、菊竹清訓さんとか岡田信一さんとか。結構調べるとようけいいてる年代っていることにさっきふっと思い立って、ああそうか、僕らがすごい感心を持ってた安藤さんとか伊東さんとかも今の僕と同じぐらいの年やったんかと思うと、まあ意外と若造やったんやなあと思います。今、ちょうど景気がようなって来て、仕事もようけあって、13年前とは今昔の感がありますが、いくつか大きなプロジェクトに関わる機会にも恵まれ始めまして、そういうときにいろいろかんがえてきたことをまとめる機械を展覧会ですとかこういう講演会で持てることを非常に幸運に思っています。
スライドをみていただきながら、いろいろ話を聞いていただきたいと思います。