アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
これは東京の乃木坂にありますギャラリー・間というところで、9月の末から1ヶ月展覧会をやらせていただきました。その展覧会の構成です。まず今日のテーマの「不連続都市」ということからお話ししたいと思います。不連続とは簡単にいいますとわれわれが住んでいる今の社会の僕なりの認識で、いろいろな技術とか。通信手段とかそういったものがものすごく進みまして、僕らは今までにないような状態で生きていると思うのです。
今では僕らはあたりまえに思っているのですが、たとえば高速道路を走っている感覚みたいなものですね。これは古代ギリシャ人とか、アウトバーンをつくったヒトラーとかもこんなに日常的には考えられなかったような感覚ではないか。つまり車はある意味では僕らの足の延長ですけれども、スピードひとつとっても歩くスピード、新幹線のスピード、飛行機のスピード、などさまざまなスピードを体験できるし、それらのスピードが滑らかに繋がっているのではないということをあたりまえに認めるようになっている。テレビのように世の中にはチャンネルがいっぱいあって、そのどれかを選ぶ。その選んだチャンネルにはひとつのルールがある。ちょうどテレビのように、いくつもの世界が共存しているのが現在の社会だという認識があたりまえに小さいときからあるような時代に僕は育ってきましたし、僕以降の人たちには当然そういう感覚があると思います。それまではある完結した全体像を求めれば与えられた、努力して万巻の書を読めば与えられるという世界であったと思われます。つまり共同体が信頼できる形であったと思いますが、現在はそういう共同体がすべて引き裂かれて地縁、血縁、その他さまざまなものが崩壊して、家族というものも最後のより所になるかどうかというような瀬戸際です。人間が個々に引き裂かれた状態になっている。しかも個人の肉体の能力というのは古代からそれほど変わらなくて、たかだか100メートル走るのに10秒を切った、コンマ何秒をようやく薬に頼って縮めているという状態ですが、頭の中、意識のスピードというのは猛烈です。それは結局テクノロジーの進歩によって、通信手段、メディア、コンピュータちったものがそのまま頭脳の延長になる。結局頭脳の延長というものによって得られる感覚がすごいわけです。
車の話ですが、F1なんかコックピットの映像がテレビで映し出されてなるほどと思うけれどそれは高速道路で体験するスピード感の延長にあるわけで、そういったものを日常的に体験できるわれわれの頭というのは、おそらく昔の人の頭の中とは違っている。昔の人は歩くスピードで頭の中を動かせばいいわけで、考えられる世界というのは歩くスピードと動く手と、それから自分の頭で構想する宇宙論というのが連続した体験の中にあったんだと考えていいと思います。それに比べてわれわれはそれぞれ手には手の論理があって、足には足の論理があって、頭には頭の論理があるし、他の存在との関係においてはまた違う論理がある。
それからスケールにおいても、電子顕微鏡や測定機器の進歩とか望遠鏡だけじゃなくてボイジャーが探索するとか、そういう世界にあっては知識としてはものすごいさまざまな世界観を同時に頭の中に共存させることができるかというか、させざるを得ないわけで、顕微鏡あるいはそれよりもっと細かい量子力学の世界を見て、結局物質というのは粒子と波の双方の表情をもつとか、さらに細かくいくと存在そのものが明滅するし、質量とエネルギーが相互に転換するだけの存在かも知れない。ところがわれわれの日常的な世界ではそんなことを考える必要はなくて、それはそれなりのスケールをもっている。それから宇宙ということに思いを馳せれば、この大宇宙に比べればなんかすごくちっぽけな存在やなあと思うことは尊いことだけれど、ちっぽけな存在やということで全員皆殺しにしたらいいかというとそういうことはないわけで、それぞれのスケールにそれぞれの論理があるということは分かってきているし、その国にはその国の論理があるわけやし、天安門で虐殺されたというてもどちらの方でどういう論理があってどういうふうな状態なのかというのは、完全に全貌が明らかにはされてないわけです。
ただ分からないなりにさまざまな情報が断片化されて与えられて、その情報を受け取るということがわれわれの日常になっていて、これはそんなんシャットすればええやんかということは簡単ですけれども、人間は好奇心の動物ですし、知りたいということは本能ですから知ってしまうと後戻りがでけへんわけです。断片的な情報がどんどん頭の中に詰め込まれるし、しかもそれをそれぞれのスケールなりにひとつの体系化ができるけれども、ニュートン力学が小さなスケールにいくと量子力学にとってかわられるとか、そういう感じで全然違った世界であって、それはそれで仕方がないというかさまざまなスケールがさまざまな論理をもっていることを共に認めて、その中でどういう関係がありうるかということを探らなければいかんという認識の根本を不連続という言葉で現していまして、その不連続ということをどのように展覧会で現すかというのを試みたのがこの展覧会です。
このゾーンが一万分の一とか五千分の一でつくりました都市モデルです。これが百分の一でつくりました建築モデル、レリーフモデルです。このゾーンが基本的に50分の1という比較的大きなスケールでつくりました断片モデル。「未完結なオブジェ」と呼んでいます。そういったものが共存して、それぞれが相互に関係をもっているような展示を試みております。
これは展覧会の一部です、京都のシムスという和紙をデザインしてすいてくれるところですが、そこの掘木さんという方といっしょにつくった和紙の壁面です。2.1×2.7メートルありまして、後ろから光をあてるとこういう色になる。後ろの光を消すとほとんど真っ白になるという面白い和紙です。
ちなみにこの「不連続都市」で“竹山聖と仲間達”といいました仲間というのはアモルフの仲間も含むのですが、だいたい建築家なんていろいろな仲間と仕事をせんと建築なんかでけへんわけで、展示会もみなでわいわいやったらええんと違うんかなというのがありまして、この掘木さんとかコンセプトデザイナーの青木さんとか、いろんな人と共同しているという意味で仲間達というふうにいわせてもらいました。これもそういう意識にもとづいて共同制作しまして、テーマを現す「不連続都市」とタイトルをつけた和紙の壁画みたいなものです。