アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
建築家の間でも「かけがえのない住宅」という議論がなされることがあります。しかし、私はこの「かけがえのない住宅」という考え方は一見反体制的に聞こえますが、本当のところは産業資本主義寄りで、体制寄りの意見だと思います。つまり「かけがえのない住宅」こそ自分たちを資本や体制から守る貴重な砦だといういい方されますが、実はそれこそ資本主義がいちばん望んでいる論理なのです。そういう砦にお金をかけて、そのために一生懸命働いてくれれば、資本主義にとってこんな都合のいいことはないわけです。だから「かけがえのない住宅」などというレトリックにだまされてはいけないのです。住宅なんて基本的にはかけがえもなんにもない、どうでもいいものです。
私の「10宅論」というのは、そういうつもりで書いた本です。住宅なんてどうでもいいんだ、住宅を神聖視するのをやめよう、もっと住宅を相対化しようとしたわけです。
アメリカの「コロニアルスタイル」というのは、住宅ローン制度を始めたときに爆発的に普及します。というのはコロニアルスタイルの住宅は、デザインにクセがないために転売しやすい。そこでコロニアルスタイルに住宅ローンを貸しやすくしようとしたんです。その政策に誘導されてアメリカでコロニアルスタイルがあれほど普及し、20世紀を代表する「家」のスタイルになりました。
ところが都市と郊外、生産と消費、あるいは労働と居住という二項対立が20世紀末にきて揺らぎ始めている。その揺らぎの一つの表れが「ポストモダン」の建築です。
その代表は1985年に完成したフィリップ・ジョンソン設計の「AT&Tビル」です。ニューヨークのマディソン街にあります。これは都市のダムボックスの大きな箱に対して、郊外住宅のデザイン、さきほどのコロニアルスタイルに見られるような歴史主義的で不透明なデザインを被せたというデザインになっています。
なぜ、都市的な箱に郊外のデザインが被せられたかというと、一つは産業資本主義の構造自体が変わってきたからです。産業資本主義のときは、大きな箱に大量の人間を閉じ込めて働かせる、というのがいちばん効率がよかった。それは工場でもオフィスでも同様だったわけです。ところが、情報資本主義といわれる、現代の資本主義の形態においては、大きな箱の中に詰められると、人間は仕事がしにくくて仕方ない、逆に住宅のような小さくてヒューマンなスペースの中で情報の端末さえあれば、そのほうがはるかに仕事がしやすい環境である、という現実になってきた。
そういうようにして、まずダムボックスの中で働いて郊外で暮らすという二項対立が危ぶまれてきた。もう一つフェミニズムの問題があります。というのは、郊外住宅は基本的には女性を郊外に隔離して家事というシャドーワーク、つまり悪寒wniならない労働を強制しているライフスタイルなんですが、そこから女性が飛び出そうとし始めました。同時に資本の論理からも女性の労働力が必要になってきた。女性の安い労働力を都市に呼び戻したいという必要性が生まれてきた。そういうことで、女性たちがまず郊外住宅を嫌い始めたわけです。これを私は「郊外の没落」と呼んでいます。
これは、美学的にもっとわかりやすい言葉でいうと「メルヘンの美学の没落」です。つまり「郊外の美学」は「メルヘンの美学」だったわけです。芝生の上でかわいい家に住んでかわいい洋服を着て過ごすという、メルヘンの世界が郊外にあった。女性がそのメルヘンの夢から覚め始めたのが、1970年代から80年代以降の社会現象です。建築の世界で郊外の美学がすたれただけでなく、少女漫画の世界でもメルヘン漫画が1980年代になると急に人気がなくなって、もっとストレートなものが好まれるようになってきた。この辺のことを大塚英志という社会学者は「ディズニーランドが原因だ」といっています。「ディズニーランドはメルヘンの極致としてあり、極致が登場したことで逆に人々はメルヘンの夢から覚めた」というわけです。根本の原因はもっと深いところにあると私は思います。いずれにせよ美学の二項対立が70年代を堺にして崩壊し始めます。
そろそろ、この辺から私の作品が登場してきます。