アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
次は、東京のがさがさした環境に戻ります。「RUSTIC」です。ラスティックちは本来は錆びたとか田舎風という意味です。最初の話の分類でいうと反都市の美学のことをいう言葉です。ところが建築用語としてのラスティケーションはわざと石材を粗く積む粗石積みという意味になります。ラスティケーションのパターンをここでは外壁のアルミパネルに細かい模様の形で転写して使っています。ラスティケーション、つまり反都市の美学をアルミという都市的な美学の中に溶かし込み、反都市の美学と都市の美学の接続ということを考えてデザインしました。
低層部に四本の柱が立っています。この柱は構造的には何の意味もない完全にフェイクの柱です。向かって左のほうから順に柱が欠けていき、最後は柱がごく短くなり、テレビが突き刺さった柱になります。このときに頭にあったことはやはりフィクショナルという概念です。リアルな柱がいちばん左側のものだとすれば、次第に欠けていき、最後はフィクショナルな映像に転換されてしまう。その途中に鉄筋とか鉄骨に変換されて最後は構造までもなくなり、単なるフィクショナルな映像になるということを象徴的に示しているつもりです
リアルなものからフィクショナルなものにフェイズ変わっていくプロセスを示すときに、柱がどうもいちばん面白いのではないだろうかと思います。柱は最もリアルなシンボルとして建築の中心にあったものです。古典主義建築の中心にリアルな柱という幻想があった。そのリアルな柱という幻想を壊していくために、柱を使って柱の幻想を壊したい、という考え方です。これはその後の「M2」にも受け継がれていきます。
最上階に数寄屋バルコニーをつくりました。数寄屋風の丸窓と竹の樋を模した雨樋をつくり、数寄屋という反都市のモチーフを、ステンレスという都市的な材料に変換することで新しい重層化した都市性を表現しています。樋は桂離宮の樋をそのままステンレスで形を起こして使っています。
バルコニーの手すりは高速道路のワイヤーを使っています
一階のロビーの床、壁、天井にイタリア世紀末の画家キリコの絵の中のモチーフを立体的に三次元に転換して当てはめています。
キリコがよく使う煙突のモチーフは天井の部分に使っています。天井のパターンが壁を伝って床に一体化していきます。フィクショナルなインテリアということで、クラシックなパターンが充満している中に、そのクラシックなパターンをできるだけ希薄化し、夢の風景のようなものに転換して空間の中にばらまいているわけです。キリコはトルソを描いた作品が多いのですが、その胸像を、頭を下に台座が上になるというふうに上下反転させて、壁に埋め込んでいます。壁際の赤い棚は、私の尊敬しているアーティスト岡崎乾二郎の作品です。ところが誰もこれが作品であるとは気がつかないで通り過ぎますが、実はそれこそ作者がねらったことなんです。
アーティストの岡崎氏がなぜ棚をつくったのかというと、「建築家がアーティストに仕事を依頼するときは、だいたいろくなことを考えてない。建築家がアーティストに頼む動機は、自分の作品にキャラクターがないときに、アーティストにキャラクターづけを求める。自分の建築が単なる棚にすぎないと思ったときに、その棚に置く物をアーティストに依頼するのが、いわゆる建築家の頼み方である。建築家には、いつも一緒に組むアーティストがいて、彫刻や壁画を依頼するというつくり方をする。そういう頼み方は最低である」。だから「自分がそういう頼み方をされた場合は逆に自分が棚をつくる、建築家が棚をつくってアーティストが置物をつくるのでなく、アーティストが棚をつくって建築家にお返しをする」といって岡崎氏は棚を作ったわけです。岡崎氏はたいへんな論客でもあり、最近は建築についてもいろいろ評論しておられるようです。彼も私のニューヨーク時代の仲間の一人です。
このタテも二は、プログラムの上でもコーポラティブ・オフィスという面白い試みをやっています。コーポラティブ・ハウスというのは、大阪の都住創の作品など、いろいろありますが、これはそれのオフィス版です。東京にオフィスを持ちたいという人間が10人集まり、彼らが土地を買い、自分たちで各階それぞれ別のプランをつくっています。だから、各階異なるプランで吹き抜けが入れ子状になっている非常に複雑な建物になっています。天井高も内装もそれぞれ異なります。いわば自由設計で10人のオーナーのオフィスができています。こういうことを考えるのは、だいたいが自由業の人たちで、構成メンバーは建築家の他には広告関係の人やカメラマンなどです。コーポラティブ・オフィスというプログラム自身が、いわゆる都市の中の大きな箱で働いて、郊外のかわいい家に住むという、さきほどの二項対立の解体そのものだと思います。こういう小さいオフィスは、働く空間でもあるし、住む空間でもあるわけです。そういう空間を都市の中に高密度に組み上げていく、という姿が20世紀の都市のあり方へのアンチテーゼになり得ると考えてつくった作品です。