アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
M2の中で1992年の春にインタラクティブネスをテーマにした「東京起柱計画」という展覧会をやりました。
M2の計画の中でインタラクティブということを考え初めて、人間に応答してくれる建築というものをずっと考え続けていました。単にエレメントを呼び出せるだけでなく、もう少し応答性のあるものができないだろうか、それは建築レベルではまだなかなかむずかしいだろう、しかしオブジェの世界ではできるんではないだろうか、ということで、この展覧会をやったわけです。応答し合っている五本の柱を立てました。また、人間が声を出すと、その声の大きさによってその声に応じて回転が変わる「緑の草」、人間の声や音に応じて明るさが変わる部屋などもあります。ウォシュレットの中にビデオカメラを仕掛け、そのカメラが写している映像がヘルメットの前のモニターに写し出されるという機械も展示しました。インタラクティブネスの追求の一つです。もちろん洋服は着たままですが、これは女性でも平気で座って試していましたね。自然のツタをゴム越しに触れるというものは、自然もすでに直接触るのでなく、もはやゴム越しにしか触れられないということをインタラクティブネスとして表現したものです。液晶ガラスという、電気に応答してクリアになったり曇ったりするガラスと人間の拍手の音を集音するマイクロホンと組み合わせて、人間の拍手の仕方でガラスがクリアになったり曇ったりをコントロールできる装置も考えました。急に曇ったりグラデーションがついてクリアになったりします。
インタラクティブネスをテーマにした「東京起柱計画」は、建築というより一種の思考実験です。頭の中の回路をモデル化してみたわけですが、そうしたものが建築に生かされてこないと、どうも現代の建築の沈滞は解消しないのではないかと感じております。 フランスのジャン・ヌーベルが面白いことをいっていました。彼はすでに私の九歳上なんですが、その彼が自分より上の建築家を指して「テレビができて感激した時代の建築家、テレビの映像だけでびっくりした建築家がノーマン・フォスターなどの世代である。自分たちの世代はすでにテレビが当たり前の時代に生まれている。そのため映像的な希薄感や表層性はすでに生まれたときから持っている世代の中にいる」といっています。
そこで私が思うのは、私たちの世代を興奮させてくれるものは、要するに応えてくれるかどうか、ということではないだろうか、テレビは美しいかもしれないが、応えてくれない。応えてくれないものはどんなに映像的で美しくても、私たちをわくわくさせてくれない。コンピューターゲームはたしかに応えてくれる、しかしゲームは映像であり、リアルでないが故に逆につまらなくなっているともいえるのです。最近バーチャル・リアリティということがいわれている。これはつまり、フィクショナルなものが美しいという状況から、どこまでリアルに近づけられるかということで、フィクショナルに向かうベクトルが反転し始めたのではないだろうかと思います。かつてはフィクショナルで希薄であるほど美しいとされた。ところが逆にリアルであるほど私たちをわくわくさせてくれる。ところがリアルでありながら、なおかつインタラクティブなものに興味が移り初めている現実を象徴しているのが、実はバーチャル・リアリティと呼ばれる現象なんだろう。
建築でいうと、フィクショナルなほうへ、要するに希薄なものへと建築デザインは向いている。それは、現代的なテクノロジーを建築的に表現しようという意味ではわかりますが、テレビの美しさを再現しようというレベルにすぎないのではないか、と思います。その先にはテレビを越えたインタラクティブなもの、人間と技術との新しい関係を切りひらくもの、そういう建築が本当は求められているんではないかと思います。私たちは、そういう建築を志向する、あるいは思考せざるを得ないような世代ではないかという気がしています。そんな気持ちで一つ一つの建築をつくっている、というのが現状です。
私の話は以上です。どうもありがとうございました。