アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
「中野本町の家」という住宅を1976年に設計しました。私の姉の家族のための住宅です。私自身にとっては四番目のプロジェクトです。昨年この住宅が突然解体されました。今日はその話から始めます。
「中野本町の家」は新宿からわずかな距離のところにあり、私自身もその隣に住んでおりましたが、80年代に入ってそこに「シルバーハット」という自邸をつくりました。
去年の二月二十八日のことですが、姉たちは引っ越して、すべてのものがこの家から運び去られ、竣工時と同じように何もない空間が再現されました。マッキントッシュの椅子が置かれていますが、この椅子だけは隣に住んでいた私の持ちもので、最初からあったわけです。撮影のときにこの椅子を置いたらいかにもいい雰囲気だったものですから、そのまま置きっぱなしにして二十何年かがたちました。もちろんカーペットも汚れていますし、壁も汚れましたが、光は同じように上から射し込んできます。住宅とは非常に不思議なもので、いったん住人がいなくなりますとまるで十年も前から廃墟であったかのように変わってしまいます。
出来上がった当初は、コンクリートの味も素っ気もない打ち放しの壁だけが露出していて、外側に窓もほとんどありませんし、十年たっても二十年たってもこの住宅は変わることはないだろうと思っていたんですが、ツタが壁や屋根を覆い始め、中庭もやがて雑草に覆われました。3.6メートルの幅で二枚の壁が回っていて、その間につくられた空間に四つスカイライトがあり、そこからの光がとてもこの内部空間には重要な役割を果たしています。
内部ですが、天井はほとんどの部分がプラスターをかけてその上に寒冷紗をかけてペイントで仕上げたものですから、左官の仕事にかなりの時間が費やされました。
私の姉と、その二人の娘の三人がこの家のクライアントでした。この家ができる一年前にこの家族は一家の主をがんで亡くしました。当時彼らは都心のマンションに住んでいたのですが、主が亡くなって、非常に寂しい思いをしてマンションに帰ってきたときに、女性三人でこれから新しい生活を切り拓いていくための強い絆を意識させる住宅がほしいと思ったわけです。そしてマンションを売り払って、たまたま私の家の隣に土地が売りに出されたものですから、そこに移ってくる決意をしました。このU字型の家をつくるきっかけでした。
この住宅の性格ですが、外の世界に対して極めて閉ざされています。内側を向いているわけです。60年代にメタボリストを中心として都市に向かって大きなプロジェクトが投げかけられましたが、それに対する反動といいますか、70年代はオイルショックの後ということもあって内側に向かう傾向がありました。どんなに小さくても内側にユートピアをつくりたいという志向が非常に強かった時代です。
そんな時代にこの住宅も考えたわけで、中庭をつくることはかなり初期の段階から想定されていました。中庭に向かってもっとたくさんの開口が開けられていました。また外側に向かってもたくさんの開口がつくられていました。この住宅の設計にあたって、クライアントである私の姉から出された条件は二つありました。一つは、今まで高層のマンションに住んでいたので、新たに住むからには土を意識できるような住宅であること。なぜかというと、病院や高層マンションでほとんど自然から閉ざされていたということもありますが、亡くなった義兄が土をいじることが好きで、休みになるとよく家族で岐阜の田舎ヘ行っては畑を耕したりタケノコを掘ったりしていたからでマッキントッシュの椅子 が置かれた内部す。二つ目は、今までマンションでありきたりの平坦なプランに暮らしていたので、ここに移るからには親と子供たちがそれぞれ土を介してお互いに見透かせるような、中庭をつくりたいということでした。そんなことで、当初はこの中庭に向かって各部屋が見通せるようなプランで進んでいたわけですが、あるときから一挙に閉ざされていきました。これは時代の趨勢もありますが、そのときのその家族の状況が内向していたからでもあるでしょう。姉との対話の中で精神的な内向性が私に伝わって、私は私なりにもう少し建築的な視点から、相乗的にこの住宅が閉ざされていったという過程があります。
上からの光に頼るということは、当初は考えていなかったわけでが、壁の開口部が少なくなるにしたがって、上からの開口部が増えていきました。そのことはなお精神性を高めていくことになったと思います。
床も壁も天井もほとんど白一色です。これも私の考えという以上にクライアントとのコミュニケーションのプロセスで、精神的な思いからより徹底される方向に傾いていきました。私自身は、同じ断面で続いていきながら上から、あるいは場所によっては中庭に面した横からの光によって変化を続ける一連の長いチュープ状の空間に意識的になり、その白い柔らかなチューブをいかに美しくつくることができるかに夢中になっていました。霧の中でモノを見ているような、そんな柔らかさをつくり出したいと考えたからです。
光が落ちてくる明るい部分と暗い部分とが意図的に交互に現れるように、つまり光によってこの単純な空間の中にリズムが生じるように意図されています。タ方になると、床に置かれたいくつかのランプから、人の影、ものの影がこの壁に映し出されるように、つまりスクリーンのような役割を壁が果たしています。夜、左官の職人さんたちが床にランプをころがして壁を塗っている、その足場板が壁に映る様子を見て、このようなことを思い立ちました。
中庭は最初の二年間、真っ黒な土のまま放置されました。最初のプランでは芝を植えることになっていたのですが、土が入ったときにとても新鮮な印象がありました。内部の真っ白な抽象的な空間に対して中庭の打放しコンクリートと黒い土というコントラストがとても新鮮に見えたわけです。それで、ここでは何も植えないほうがいいのではないかということになったのですが、鳥が種を運んできたり風で雑草の種子が舞い込んできて、次第に雑草に覆われた庭になりました。姉たち三人は、芝に覆われて手入れの行き届いた庭よりは、雑草の自然な姿を好んでいました。それも先ほど申し上げたように、この家族の田舎の野っ原の思い出の断面が切り取られてここにあるということが、彼女らには好ましいことに思われたんだと思います。たまに花の種をまいたり、あるいは犬がここで駆け回ったりもしていましたが、この中庭にいると何か不思議な閉じられた空間、上のほうだけ回りのマンションや高い住宅の一部がちょっとだけ見える、それがこの中庭から見ると何か別の世界を形成しているように思われました。
彼女たちはおよそ二十年間ここで募らしました。長女は大学では法学を学んだのですが、大学の頃から自分はシェフになりたいという強い希望がありまして、大学を出るとシェフの修業をするためにこの家を出ていきました。そしてその修業を終えた後はもう一度ここに戻ったり下宿をしたりを繰り返しながら暮らしてきました。一方、次女のほうは音楽が好きで、大学では美術史を専攻して、今博物館に勤めています。二人の親である私の姉は音楽の理論を研究しておりますが、都心に小さなオフィスをもって、そこで昼間は研究をしています。そのようにして家族の三人がそれぞれ自立した生活を始めるようになりました。そのときに、強い絆を意識させるためにつくられた内向するこの住宅は、だんだん彼女たちにとってはうっとうしいものに思われてきました。この住宅に拘束されるという思いを強くもち始めたわけです。中でも一香批判的であったのが長女でした。彼女は父親思いだったのですが、その父親の記憶とこの住宅とがあまりにオーバーラップし過ぎると感じていました。特に母親が何か夫の思いを強く抱きながらいつまでもこの家にこもっているということに反対して、早くこの家から出ていって新しい生活を築いたほうがいいのではないか、といい続けていました。一方、次女はこの家が気に入っていて、ものごころついたときから自分の美意識がこの住宅で養われてきたので、この家は壊したくはないと考えていました。
そのうちに、この住宅は一体何のためにあるのかということをそれぞれに疑間をもち始め、三人の間でずいぶん長い間議論が重ねられました。その結果、もはやかつてのような意味での家族を意識する必要がなくなった今、この住宅はいっそのこと壊してしまったほうがいいのではないか、人の手に渡って他人が住み続けるよりは、白分たちの二十年の歴史をもってこの住宅の歴史を閉じてしまったほうがいい、という結論に至ったわけです。
最後にこの住宅が取り壊される前に、三人にそれぞれ個別のインタビューをしてもらいました。彼女たちにとってこの住宅が一体どういうものであったのかを語ってもらいました。その記録が本になっています。その中で長女は、自分にとってこの家は墓石のようなものであったと語っていました。私はそれを聞いてショックを受けました。
ちょうどこの住宅が壊される頃、ピーター・アイゼンマンが主催する「バーチュアル・ハウス」というタイトルで六人の建築家がプレゼンテーションする機会がベルリンでありました。そこで私はこの住宅をテーマにして語りました。
この家が売り渡されてからも二、三カ月ぐらいはたぶん空き家のまま残っているだろうと思ってベルリンに出かけていったわけですが、戻ってみると、引き渡されてからわずか二週間後にはまったくかたちをとどめないような状態になっていました。残酷という以上に都市のすさまじいエネルギーを感じました。現在、ここは小さな四階建てのマンションで埋まってしまっています。
この住宅がなくなったときに、この家族にとって白いチューブの空間がどのような記憶として残されていくだろうか、その思いをたどることがバーチュアル・ハウスであると思っていたわけですが、私はプレゼンテーションをしながら、実はこの住宅はつくったときからバーチュアルな住宅であったのではないか、と思いました。といいますのは、一方で三人にとっての生活する器であったわけですが、それと同時に三人の家族にとっての家といいますか家族という存在を象徴する、もう一つの家が存在していたわけです。例えば次女は中学生ぐらいのときにはこの住宅にこもって、そこに姉の友だちなどがやってくることすら拒絶する時期がありました。そのように自分にとっての貝殻のような、それぐらい強い空間であったわけです。したがって、彼女たちの家族という思いが崩壊したときに、この住宅もなくなってしまったわけです。
一般に住宅をつくるときには、家族にとって家は何であるかという思いがかならず語られます。それは商品化住宅では典型的にバルコニーがあるとか、かわいらしい屋根がかかっているとか、いろいろなかたちで現れるのですが、それは個人のことばで語られるものではなく、文法どおりに主語と述語だけで語られる。そういうことばで家というものが成立しているわけです。ですから、どのような家族がその家に住んでも、そこに強い思いを抱くこともないかわりに代々替わって受け継がれていっても何ら壊される必要はないのです。
ただ、「中野本町の家」はある瞬間のある家族の思いを強く意識して、そこに特化してこの空間がつくられていったために、壊されざるを得なかったのです。そのバーチュアリティは、決して家族から与えられるものでもなく、建築家が見出すものでもなく、そのコミュニケーションの過程で、設計のプロセスの中で発見されていくものだと思います。そのことを今われわれが住宅を設計するときに一体どういうかたちで発見ができるのか。この家の場合には強い意識に支えられて特別な空間が生じたわけですけれども、今われわれが設計するときに、ゆるやかになってしまった家族という意識をどのようなかたちで空間に置き換えることができるのかというのはとても難しい問題だと思います。