アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
ここで現代建築と近代建築の違いについてお話します。いまお見せした焦げ茶色の広間のある「諏訪のセカンドハウス」ができたとき、僕は自分の指向する空間が、明らかに学生時代に学んだル・コルビュジエなりミース・ファン・デル・ローエなりの近代建築とは違うものになったと感じました。トム・へネガンというイギリスの建築家がいるのですが、彼もこの住宅を見に来て同じことを言いました。僕は彼とは面識がなく、バックボーンもまったく違うのですが、そのような人にもそう見えるのか、と驚いたことを憶えています。そのころから僕は、近代建築と異質なものとして、現代建築という言葉を使うようになりました。あの焦げ茶色の広間のような空間は、明らかに近代建築の範疇には入らないし、かといって前近代にもあのようなものはありませんから、「現代建築」とでも言うほかないと思ったためです。
僕の考える「現代建築」ないし「現代」とは、屋外や屋内に現れるモノの種類がすごく増えたという指標があります。現代は、二十世紀初頭や二十世紀半ばと比べても、決定的にモノの種類が増えています。100年くらい前の世界を写したフィルムが残っていますが、それを見れば一目瞭然です。当時はモノの数も少ないのですが、そもそも種類が少ないと気付くと思います。 たとえば街路を見ても広告はもちろんありませんし、車もありません。あるのは自転車と馬車くらいです。現在のように、バイクがあったりスクーターがあったり四輪駆動車があったりワゴンがあったりトラックがあったりというような状況ではないのです。屋内も記録フィルムに残っていますが、たとえば住宅の室内には家電がありませんし、雑誌もそんなにありませんし、文庫本も単行本もありません。モノの種類が非常に少ないのです。
そもそも人間を見でも、服のバリエーションが極端に少なくて、みんな同じような格好をしています。日本橋を撮ったフィルムもあるのですが、みんな同じような和服姿で、言わば全員がユニフォームを着ているようなものです。僕の祖父母もそうだったのですが、6月になるとどんなに寒くても袷を着なければいけないと言っていました。また、年齢ごとにこの年齢だと振り袖を着るとか、丸髷にするとか、いろいろ決まっていたわけですね。重要なことは、そういった世界を「空間的に」眺めると、やけに美しく見えるということです。街路なども非常に静謐で、まるで月世界のようにきれいです。ところが現代は、人間の格好ひとつとっても、みなバラバラです。東京の渋谷のあたりの女の子はスカートのかわりにバスタオルみたいなものを巻いているとか、化粧もすごいものになっていて、もう考えられるあらゆることをやっているわけです。服や化粧や髪型といったものまで、種類が増えたのです。スぺ−スに現れるありとあらゆるモノ、屋内の調度品や家具類だけでなく、小ものや生活雑貨や、また人間の服装や髪型や、屋外の自動車であるとか交通機関から何から何まで、すべからく種類が増えたのです。かくも多種多様なモノが集中してしまうために、スペースが見苦しくなってしまうのです。これが「現代」というものの「空間的な」特徴であり、問題だと思います。
ちなみに、このようにモノの種類が増えてきたことは、それほど遠い昔にはじまった話ではなく、日本では80年代以降に際立って増えたと思います。それ以前は、モノは「種類」ではなく「数」だけが増えていった段階だったと思います。この違いは非常に重要です。というのもスペースが見苦しくなるのは、モノの数ではなく種類が増える時だからです。
僕はかつて、まだ壁があったころの東ベルリンに行ったことがあるのですが、当時の東べルリンには車がほとんど一種類しかありませんでした。もちろん車の台数はたくさんあり、西側世界と変わらなかったのですが、決定的な違いは、同じスタイルとサイズの車しかなかったことでした。ですから当時の東ベルリンの駐車場は、すごく美しかったのです。それは車の種類が少なかったからです。そういう風景を見たのは、生まれて初めてでした。
これに対して、日本の駐車場はどうでしょう。普通に駐車場を利用している状態で、それが空間として、いわばドメスティック・ランドスケープとして、美しく見えているでしょうか。みなさんもう慣れてしまったかもしれませんが、そうではない状態のパーキングを知っていたら、お世辞にも美しいとは言えないと思います。駐車場も駐輪場も、日本中どこに行っても日に日に見苦しくなってきましたし、場合によってはスクラップのゴミ捨て場と変わらない状態になっています。住宅も屋内に入ってみれば、家電にせよ雑誌にせよ調度品にせよ日用品にせよ、ありとあらゆる種類のモノが集まって、日に日にゴミ捨て場のようなスペースに近付いています。しかも、ただでさえ日本の住宅は狭いのですから、モノがいっそうごちゃっと集中してしまい、ますますもって見苦しくなってしまう。
こうしたことは、身の周りの立体の種類が増えたせいなのです。立体の数だけ増えた段階では、そうではなかったのです。たとえば、グロピウスが設計したデッサウのバウハウスの講義室というのがあります。ブロイヤーの椅子が80脚くらいびっしり並んでいる、いかにもバウハウスという有名な白黒写真がありますね。でもあれは、一種類の椅子だけを集めた状態なのです。立体(椅子)の数は多いのですが、種類が少ないのです。そのようにしてスぺースを美しくするのが、モダニズムだったと思います。そこに、もし80種類の椅子が集まったとしたら、きれいに見えるでしょうか。種類が違ってもなおかつきれいだという方法が、あの手法でできるかというと難しいのではないでしょうか。僕は「諏訪のセカンドハウス」の椅子が四種類あるという時に、これはもうバウハウスの方法ではだめだと思ったのです。
たまたま椅子を題材としましたが、テレビなども同じです。60年代くらいに住宅作家が「テレビをリビングに出すのを認めるかどうか」と激論していたことがあります。その時は大した結論も出ず、終わってしまいました。その時代はテレビの話だけしていればよかったのです。しかし今ではどうでしょうか。テレビの横にはビデオデッキやDVDプレーヤー、LDプレーヤーがあって、さらにプレステがあって、パソコンも夫婦で一台ずつ持っていて、オーディオコンポもあるといった状況です。テレビで騒いでいるどころの話ではありません。とにかくものの種類が増えました。同じスタイルのモニタが10個あるというのだったらモダニズムのデザイン方法できれいにできますが、まったく種類の異なる家電が10種類となると、やはりそれは難しいと思います。
簡単に言えば、一種類のものがたくさんあったのがモダニズム、数が多かろうが少なかろうが、とにかく種類が多いのが現代です。ですから現代建築は、その種類の多さに何とか応えるデザイン方法を考えなければいけないと思っています。これは屋内についても屋外についても同じです。モダニズムの方法というのは、さっきのグロピウスのインテリアもそうですが、基本的には同じものの反復でできています。これはインテリアだけでなくて、エレベーションのつくり方もそうですし、プランニングもそうです。オフィスは基準階平面の反復でできていますし、集合住宅も同じユニットの反復でできている。種類の少ないものをたくさん集めるのがモダニズムだと思います。それでは種類が多くなった時に、じゃあどうすればよいのか、というのが現代の課題だと思います。