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東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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内井 昭蔵 - 「建築と装飾」
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東西アスファルト事業協同組合講演会

「建築と装飾」

内井 昭蔵SYOZO UCHII


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装飾を通して建築の本質を見つめる

きょうは「建築と装飾」というテーマでお話ししたいと思います。

装飾という言葉は一般的にはかなり否定的に受けとられている言葉です。私自身もあまり使いたくない言葉なんですが、適当な言葉がないので使っております。装飾というより意匠といったほうがわかりやすいかもしれません。

私自身、装飾とは人間の本性に根ざしたもの、つまり欲望というか、肉体的あるいは精神的な渇望をいやす、最も本質的なものとしてとらえています。装飾というと官能的ということをすぐに連想しますが、官琉能を超越した無私の法悦を求める心というように考えます。無私の法悦ということは、宗教に関連してきます。この世の人間のみじめさや苦しさから解放されるというか、あるいは救済されるという、灼熱した精神の高揚といったものが考えられます。こういった法悦を求める心とは、言葉を変えていえば、宇宙に同化させたい欲求ということでもあります。こうした渇望をいやす、最も本質的なものが装飾であるわけです。しかし、それはややもすると功利的快楽というものに結びつく危険性があるだけに、これまでの歴史というものは、その否定と復権の歴史ではなかったかと私はとらえております。

人類始まって以来、装飾という火はずっと燃え続けています。現在、私たちの周辺にはいろんな装飾が氾濫しています。そうした状態を見るにつけ、装飾の本質、あるいは装飾の持つ意味を正しくつかまえる、大変にいい機会ではないかと考えております。ポストモダニズムというような現代の流れのなかで、装飾を考えるのに最適の時期であると思います。

装飾といえば、誰でもまずロココをイメージします。ロココといえば、淡い中間色や曲線や猫足の家具で象徴されるような、いわゆる装飾性の強い構成、しかもそれが、ひとつひとつの単体ではなくて、生活全体を埋めつくしていたといったところに大きな特質があります。ここで出てくるのは、非常に優雅で繊細、しかも軽快で、かつ遊びを大切にする生活様式といったものです。また、それが人間のスケールに合ったインテリアであることもロココの特性です。こうしたロココの特質を考え直してみると、いま現在、私たちが求めているものと非常に類似しているのではないかと思います。空間とか機能性のみに満足できないで、遊びを大切にする。住むことにおいても、着ることにおいても、また働くことでさえも遊びと考える、遊び心、あるいは個人の趣味を非常に大切にするといった、いわゆる流行の多様化ということは、いいかえれば、全体よりも部分を大切にするということです。女性が優位にあり、しかも男女の格差がなくなってきつつあるという状況もまた、ロココの特性です。したがって、現在の状況とロココはかなり類似している面があるといえると思います。

ロココ文化を一口でいえば軽薄短小ですから、これもまた現在に通じます。ロココという言葉自体も蔑視を含んでいます。その当時も、その時代以後もロココはかなり否定的に見られているわけです。これは、その後に続く歴史の展開に原因があるように思います。つまり、ロココの以前と以後を見れば説明が、つくのですが、ロココはそれ以前のバロックからのつながりで見ると、ロココはバロックの一種のバリエーションととらえることも可能です。しかし、バロックにはロココ的な女性的な曲線はなく、むしろ男性的で雄大です。同じように曲線を使っていても男性的です。そしてまた、ロココに続いて起こる新古典主義を見ますと、これは全く相反する方向といえます。道徳的であり、愛国心に裏付けられた、簡素、勤勉、実質、誠実さといったものを求める風潮であるといえます。つまり、ロココで展開された風潮を全く否定しようとする大きな歴史のうねりなわけです。

ロココが終わりを告げるのは、1770年のフランソワーズ・ブーシェというロココを代表する画家の死をもって、終わりとされております。また、新古典主義が生まれてくるのは、産業革命という時代背景が大きく影響しています。日本人はロココをあまり好まないとよくいわれます。これは、いままで私たち日本人は、生産的で勤勉で、働くことに美徳を求めてきたという、どちらかというと新古典主義的な流れに合っていたし、生活様式もそうであったからに他ならないと思います。それは、モダニズムヘと連なっていきます。

新古典主義は、ロココと対比的な特徴がはっきりと出てきます。非常に直線的です。ロココのアンバランスに対しては、バランスのよい均斉のとれたものです。また、一方は官能的で、もう一方は道徳的です。遊びというものは罪悪視されているのが新古典主義の考え方です。一方が浪費的であれば、こちらは貯蓄的であり、表面的であれば、こちらは内面的です。また形式的であることに対しては、写実的である。やさしい面に対してはきびしさといった具含に、ロココと新古典主義は全く対比的であるわけです。こうした流れを歴史的な大きなうねりとして、私たちは読みとることができます。

現在の、私たちの歴史を見てみると、非常に流行としての色合いが強いのですが、やはり、きたるべき新古典主義的な時代、つまり現在をロココと見立てた場合の、次の時代が見えがくれしているのも事実です。ものをつくるという立場で、そうした状況をどうとらえていけばいいかということが私のきょうの話の主題です。

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