アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
以上、お話ししましたことをさらに、具体的に写真で説明していきたいと思います。
私は、きょうはスライドを、装飾的な空間ということでご二つの部分に分けて用意してきました。それは、屋根と回廊と塔の三つです。これは、私が建築を考える場合、いつも心に描く要素でもあります。
まず屋根です。屋根といってもその下の内部空間を含んで考えています。屋根は、建築全体を覆うものです。これは、シェルターともいえるもので、建築の初原的形態でもあります。特に日本建築の屋根の持つ意味は大変重要です。一日にいえば、日本の屋根は陰影をつくるものです。その陰影の中に、谷崎潤一郎の世界があるわけですが、『陰翳礼讃』というのは、あれほど日本人の美意識をいい得ているものはないと思います。
屋根にも、いろいろな屋根があります。屋根は、建築の構造体でもあるのです。建築の歴史は屋根をどのように架構するかの工夫の連続といってもよいでしょう。屋根を見れば、それをつくった人や時代の自然観が透視して見えてきます。屋根こそ、建築のコンセプトを示す要素だと思います。
屋根と同じように重要な意味を持つものが回廊です。回廊というと中世のロマネスクの修道院といったものをイメージしますが、建築を構成する水平要素といってよいでしょう。これは分散した建築をつなぐものです。日本にも昔からいろいろな回廊が存在しています。たとえば、法隆寺や東大寺などの大伽蓋とか厳島神社などに見られますが、回廊は、単なる通路ではない、空間を束ねるという働きがあります。つまり、ひとつに統帥する原理を持つものです。
屋根や回廊と同様に、統帥するカを持ち、天と地をつなぐという意味での塔も建築にとって非常に重要な要素といえます。都市において全体の調和をとる、バラバラになっている建築物を統帥する、塔はシンボル的意味を持っています。塔はまさに人間そのものと考えます。人は心の中に塔を築き、成長するものといえましょう。
このように、私が建築をつくる重要な部分と考えているのは、屋根と回廊と塔の三つです。実は、この三つでいつでも私は建築を考えています。その構成は幾何学ですが、装飾によっていろいろな空間をつくり出すことになるのです。
それでは、スライドを見ながら説明します。
まず、東京YMCA野尻学荘という作品で、野尻潮にあるキャンピングサイトのメインキャビンです。
これは、播磨の浄土寺浄土堂です。浄土堂すなわち阿弥陀堂で、釈迦三尊が立っています。この建物は、日本でも非常に珍しい構造様式を持っています。天竺様といわれるもので、東大寺南大門とここだけに残る遺構です。僧重源の考案した非常に構造的な建物です。この空間は、建築の源になるような要素をたくさん含んでいます。構造的にも非常に華麗です。扇垂木の美しさは、まず他に類例のないほどすばらしいものです。これはまさに、極楽浄土、西方浄土をこの世に実現したものです。建築というのは、ひとつのコンセプト、ここでは宗教ですから教義、すなわち仏教の浄土思想というものを形に表すことです。浄土堂は比較的最近に修復されたばかりで、真っ赤に塗られて創建当時の色になっています。実に美しい朱色です。この朱色が周囲の蔀戸の間から入ってくる光に映えて、一面朱の空間になっています。また、西に向いて建っているので、西日に映えると逆光を受けてご来迎のような雰囲気になります。
宗教的空間というものは、音や光や色、臭いといった人間の五感に触れるものすべてを動員してつくられる世界です。これこそミクロコスモスといえます。ミクロコスモスを成り立たせる、柱とか虹梁といった建築の要素や部分が、全体のなかで見事に一致した、ひとつの統帥性の上に組み立てられています。つまり、ここでは装飾というものは切り離すことのできない要素として組み込まれているわけです。一般には、装飾とは付加的なものである、つけ足すものといわれます。しかし、それは除くことができないものです。除くことができるようなものは装飾といっても本質的なものではない。ひとつのコンセプトの中にあって、取り除くことのできない要素が装飾であろうという風に考えます。装飾にはいろいろな要素がありますが、一番大きな要素は陶酔性といえるでしょう。さきほどは法楽とか悦楽といった法悦のことをいいましたが、心が空中に舞い上がるという要素がなければ装飾とはいえません。陶酔性とは繰り返しです。限られた枠内でパターンがどんどん繰り返される、いわば増殖性とでも呼べる特性です。
この野尻湖畔に建てられた建物は、キャンプ場のメインキャビンです。主な機能は集会並ぴに食堂です。この施設はYMCAというひとつのキリスト教精神をベースとした青少年野外教育施設です。そこには宗教的な目的があるわけです。しかしこれは宗教建築ではありません。必ずしも明確な宗教的なサインやシンボルを置くことではなく、その目的を空間を通じて子どもたちに伝えることが必要だと考えたわけです。そこで、私は最も単統な屋根の形、すなわち三角の屋根の形を採用しました。これは幾何学であり、いわば空間の骨格というものです。三角形は宇宙、天地の美を表現します。その中に、やさしさという肉をつけなければならない。その肉がみんなの心をひとつにしたり、人と人とを結びつけたりする要素になるわけです。ここでは、屋根を支える梁を工夫しました。梁の断面は凸形をしています。その繰り返しは非常に細かいリブ状になり、見る人を陶酔の世界に引き込もうというわけであります。そうしたディテールを施すことによって、精神の集中性を持たらすことを考えました。照明器具も大切な部分であります。シャンデリアのように見えますが、木を組み立て、そこに裸電球をつけただけの素朴なものですが、装飾性を考えてデザインしました。
装飾性というものは、ひとつの目的に対してもいろいろな方法があるわけです。建築には無限の解があります。その無限にある解の中から一つの解を決めねばなりません。だから建築には、それをつくる人間性が色濃く塗り込められるのでしょう。装飾とは機能を超越するものであるだけに、いっそう個性が強く表れるものです。
ひとつの大きな空間が、屋根というものによって統帥される、つまり屋根というものは、建築の構造とかディテールを抱き込み、全体を一つにする重要な働きを持ちます。空間を限定する要素には、この他に壁とか回廊、柱、塔などがありますが、最も根元的なものは屋根です。したがって屋根には種々の装飾が施されてきました。これらの装飾は屋根に込められた人間の心の表象なのです。
次は、私が日本の装飾空間の中でピカーというか、これこそ日本の装飾空間だと思うのが、滋賀県にあります西明寺三重塔の阿弥陀堂です。写真は暗くてよくわからないでしょうが、実にすばらしいものです。ぜひ一度ご覧になっていただきたいと思います。わずか一間四方のお堂です。小さな空間です。ところがそこにある柱といわず壁、梁、天井、天蓋など一面に極彩色の仏画が描かれ、寸分の余白がありません。それは見事なものです。さきほどの浄土堂と同じように、ここはひとつの宇宙、ミクロコスモスそのものです。しかも俗悪性が感じられない、一つ一つの絵や図柄はすべて仏教経典、それに仏教思想そのものであって、人の手による極細密描写的なものです。それを見入ると自然に極楽浄土に踏み込む想いをするのは不思議であります。これが装飾の神髄であると思います。日光東照宮がよく装飾的とかいわれますが、あれはちょっと俗悪気味で、日本の装飾空間の代表としては、どうかと思います。
私は、イスラムの空間に大変魅かれます。特にグラナダのアルハンブラなどはその装飾性に強く魅かれて何度か訪れましたが、この西明寺三重塔の装飾性は、それに匹敵するどころか、それ以上にすばらしいものではないかと思います。こういうものが日本にあるということはあまり知られていないのはどうしてでしょうか。桂離宮とか伊勢神宮のような、シンプルなもののみを注目して、このような装飾性に目を向けなかったのは日本の歴史の偏向性に問題があったのではないかと思います。
これは、ひとつの小宇宙を目指してつくった作品です。修養団捧誠会という新興宗教の教祖の御霊所です。伊豆・修善寺の達磨山の頂上にあります。私はその教祖には生前お目にかかったこともあります。非常にユニークで人間味豊かな方でした。このお墓をつくる途中で亡くなられ、完成をご覧になれませんでした。若いころは霊能者だったそうですが、年を取られてからは好々爺ぶりを発揮されて、信者に慕われておられました。私は、設計する前に、この神道系の宗教法人の持っている宗教の理念を研究しました。いろいろな教えがありますが、教義を建物に象徴的に扱いました。つまり、これは象徴空間なわけです。ここに信者が来ると、自然に自分たちの教義がわかるようになっています。
この機会に世界のあらゆる墓所を研究してみました。最も感動したのが沖縄のお墓でした。この作品の造形的なところは、沖縄のお墓に負っております。立地条件も太平洋に向かって広がった山の上ですし、信者と教祖の霊の交わりが海に開いた広場でなされることをイメージしております。
ここには拝殿があります。吹抜けの拝殿です。形式は円形の回廊です。空から見ると、大きな鳥が飛んでいるような平面形になっています。延るということによって、故人の記憶をもう一度よみがえらせるというのが、墓の重要な目的だろうと考え、単純な円形という幾何学を選びました。これはこの空間の骨格であります。中央には泉があります。ここは、教義にある鏡を象徴的に扱ったものです。教義には大極という概念があります。それを墓標の石で表現しています。水に映ると球になるという形です。つまり水に出ている部分は半球です。中央に扉があって座像が入っています。普段は閉まっております。墓は水中にあります。屋根に関しては、日本の宗教空間の例にならって、拝殿には屋根はあるけれど、ご神体は外にあるということを表現しています。中心軸は富士山の頂上とピッタリと合っています。これは、教祖が日頃から富士山に畏敬の念を持っておられたこともあり、自ら富士山に対峙する場所を基所に選んでいたということから、決めました。
建築というのは、その場所の精神を率直に表すべきだと思います。場所の持つ地の霊というものは、非常に神がかっていますが、あると私は思います。これはその敷地の持つ自然といってもよいでしょう。その場所の持っている霊を立ち起こすというのが建築本来のあり方ではないだろうかと思います。ここでは、このような土地の霊が、このような建築の形態をもたらしたといっていいと思います。