アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
建築の構造において、装飾とは一体いかなる位置にあるのか、装飾の持つ意味というものを考えてみたいと思います。
私自身、ここで新たに装飾の定義づけをしようとか、学問的な分析をしようという目的があるわけではありません。設計活動の中で、装飾というものをどうとらえているかということをお話しするのが目的です。したがって、いろいろと私独自の考え方にもとづいていますので、偏見もあるし、必ずしも共鳴していただけることばかりではないと思いますが、そのつもりでお聞きください。
建築にとって、魅力が一番重要であると思います。私は、魅力ある建築をつくろうと心掛けております。建築の魅力とは、建築をつくる立場よりは、むしろ建築を見る立場からの問題でありますが、その喜びの源泉はふたつあると考えます。
ひとつは、建築の形態の中に、構造を透視する喜びがあると思います。いいかえれば建築の中に自然を発見する、自然と建築との関係の発見です。つまり、建築は自然のいろんな条件の中で成り立っているわけです。建築が必ず持っているこの構造はすなわち、建築の中に宇宙の構造を見る喜びでもあり、私たちが設計する際に使う、コンセプトという概念そのものでもあります。現在の建築に魅力のある建築が少ないのは、こうした建築本来の構造を持たない建築が多いということだと思います。構造がないというのは、躯体がないということでなく、その空間から、自然の持っている力の流れとか秩序感を見出せなくなっているということです。あるいはビジュアルに、目に見えるものとして存在し得なくなっているわけです。構造解析技術が発達して、経済効果がまず第一に求められるために、均質な構造が一般化されているというようなことです。したがって、以前の建築の持っていた、構造のいろいろな様式が消えてしまっているということが、現在の大きな問題であるわけです。構造とは、いわば抽象であり、幾何学です。建築にはこうした幾何学が必ず存在しているわけです。
建築の魅力のもうひとつの要素は、建築を通して人間を見る喜び、つまり人間のイメージを発見する喜びです。これが、実は装飾と大きな関係がある、というより、これがすなわち装飾そのものであると、私は考えています。人間は骨格だけでは魅力がない、肉体の魅力が必要です。人間の姿・イメージをどこで見るかというと、それはディテールであると私は思います。ディテール、あるいは装飾です。
建築の中に人間を見い出し、建築の中に自然を見るという、このふたつが、実は建築をつくっている大きな要素だと思います。建築は文化であるといわれます。文化としての建築というのは、いわば場所と時間と人間というものの精神を表現したものです。こうした建築の幾何学的な骨格の上に、装飾の肉体を持つ、というか衣装をまとうということが、建築の非常におもしろいところであります。文化としての建築にとっては、こうしたことのバランスが非常に重要なのです。かつて私は、「建築は健康でなければならない」といいました。この健康ということは、いうなれば、幾何学と有機的な装飾の間のバランスのことです。
文化としての建築という見方とは別に、いまひとつ文明としての建築という見方も必要です。まず、建築の求め方の問題があります。現在、わが国で求められている建築は、美意識の問題も含めて、永遠なもの、長命なものという寿命の長いものというよりは、むしろ短命なものとしてあります。これは日本独特のことです。一方、欧米の人たちが求めている建築のあり方は、永遠性です。非常に寿命の長いものへの期待があり、永遠性を規範にしてつくられています。一方、日本では流転性というか、仮りの住まいとか、桜の散り際を尊ぶ精神といったことに表れているように、短命指向です。経済流にいえば、片方はストック的で、もう一方はフロー的な文明といえます。どちらかといえば、日本はフローが得意なわけです。宵越しの金は持たないという形のものです。つまり、ここでの長命と短命ということもまた健康のバロメーターのひとつであって、この両者がバランスよくあるということが健康につながります。どちらかに偏っていることは、あまりいい状態といえないと思いますが、日本の現在の経済成長というか、活性化というものも、こうした短命的文明という日本の美意識が下敷きになって出てきているわけですから、どちらを良しとするかは一概に結論づけられません。
装飾もどちらかといえば、フロー的な面でとらえられる装飾と、ストック的な面でとらえられる装飾性の両方があるように思います。建築における装飾の位置づけということになると、いまお話ししたような問題があるわけです。ところが、こうした装飾を支えていたのは、いままでは職人が支えていたわけです。 いまやもう日本でそれを得ようとしても、なかなか得られなくなりました。過去の伝統的な様式の中でしか装飾は生きてこなかった。 たとえば蒔絵師、螺鈿師、塗師、また指物師、瓦職人といった、伝統的な職人はもういまやいない。
しかし、永遠性はこれらの人々の腕前に依存してきたのです。彼らの作品は全人格の反映でありました。現代においては、このような職人は生きられません。装飾は過去の様式を型生産したものになり下っております。文字通り、フローとして消費されていくということです。