アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
次は、私の大好きな空間です。目白の自由学園の子どもたちの居間のような部屋です。ライトはここで、「学生たちは花であり、学校は木である。木と花は本来ひとつである」というようなことを書き記しています。ひとつになる場が学校であり、自由学園の自由という理念を空間で表現したかったということをいってもいます。さらに、ライトは「人間にとって重要なのは遺伝子である。しかし、遺伝子に劣らず重要なものが、環境の持つカである」ということも同時にいっています。私は、一九世紀の人々が考えたように建築が人間を教化するというような大それた考えは持っておりませんが、しかし、人間の成長に少なからず影響を与えるといえると思います。
これは、京都・向日町のまこと幼稚園です。暖かく、包み込まれるような空間にしたいと考えました。写真は雨天体操場ですが、大きな空間であるだけに、暖かい装飾という肌着で覆ってやりたいと思いました。照明器具は螢光灯を下げるだけの費用しかありませんでした。しかし、むき出しの器具を吊るすことはやめ、それに木を添えました。つまり装飾を施しているわけです。螢光灯の光は機械的なので白熱灯のブラケットを置いています。これらは全体のなかの部分としてあるわけです。またこれらの部分のあり方に空間の理念が読みとれることが大切です。
次は、私の家です。父親が設計した家で、60年経った木造です。建て直すことも考えました。建て直すほうが費用もかからず簡単ですが、いままでのストック、蓄積がなくなってしまうわけです。建築家はすぐに新しいものを建てたがるものですが、残すということも、建築家の重要な役割だろうと思います。ところが、古い家を生かして使うことにして壊してみて驚きました。昔の建物は実にメンバーが細い、まるでバラックです。大工さんが、「これは建て替えたほうがいいですよ」といい出す始末でした。しかし、私は改修して使おうと決めたので、なんとかいろいろ手をつくして全部を元に復しました。戦争中も含め、長い間手を入れていませんでした。しかし、台所や浴室まわりなどは何度もつくりかえていました。窓枠も木製サッシでしたが雨漏りがしたり、傷んだりして安易にアルミに替えていました。建築家にあるまじき処理の仕方をしていたわけです。それらをすべて元に復しました。したがって、伝統的な作業が必要になりました。さまざまな職人を必要としました。住みながら改修したので一年半かかり、費用は全部を建て替えるのと同じぐらいかかりました。しかしそこで非常に大きなものを得ることができたと思っています。つまり、長い間私が住んできた歴史が残せたということです。
建築は、長い生命力を持つものです。その生命力を持たせるのはメンテナンスです。それなくしては維持できない。絶えず補修し、微調整していくことが大切であろうと思います。私は、このことをいつもクライアントにいい続けております。しかし、なかなか理解してもらえません。現代の建材は、長い寿命というサイクルには合わなくなってしまっていることも問題です。全くつくり直してしまったほうがいいような材料ばかりになっています。初めは、大工さんたちは私の家の仕事には乗り気ではありませんでした。伝統的な仕事の連続ですから、その若い大工さんは、それまでは型枠ばかりつくるような仕事をしていたわけで、慣れないというか、最初のころはなかなか調子が出なかったわけです。図面のほうも、私自身それほど時間的余裕もないため、せいぜいスケッチを書くぐらいで一あとは口で説明しました。ですから大工さんはたまりません。毎朝、私が仕事に出かける前にやって来て打ち含わせをし、夜帰ってきてから大工さんのやったところをチェックして、また翌朝手直しして伝えるという繰り返しでした。そうこうしているうちに、大工さんがあるとき急に目覚めました。ようやく乗ってきたわけです。
同じようにペンキ屋さんも、銅板屋も乗ってきました。銅板屋にいたっては、こんな複雑な樋や飾りのある屋根を葺かされたのは、最近は皆無だということでした。その銅板屋には銅の擬宝珠をつくってもらったのですが、それを二日も三日もかけてつくっている。時間すなわち費用がかかるわけですから気が気じゃないんですが、何度やってもうまくいかなくてつくり直している。自分が気のすむまでつくり直すという、職人特有の生理が出てきたのです。家ができ上ってしばらく後に、その銅板屋が訪れてきて、如雨露を持って立っていました。「またこういうものをつくりたくなりました」といって、手づくり如雨露を置いていきました。つまり、職人魂は全くなくなったのではなくて、生き続けているというのがわかりました。私のところを手伝ってくれた職人はひとつの業種が全くひとりで最後までつくってくれました。全くの手づくりとなったわけです。
居間と食堂の境にあるねじり棒の柱は、私がデザインしました。昔はここは壁でした。私の父親が小さなテーブルの脚のところに使っていたねじり棒を拡大してつくったものです。これは付加した要素です。つまり、私の趣味でいくつかの要素を付加しています。建物全体は父親の設計したものです。テーブルや椅子も父親のデザインです。トップライトは私がつけました。照明器具は昔から使っていたものをそのまま使っています。私は、照明器具もつくりたかったのですが、この建物には昔からあるもののほうが合うと考え、それを使いました。
私は、気に入ったものしか身のまわりに置かないようにしようと心掛けてきました。特に、建築家として重要なことは、自分の好みに合ったものしか使わない、置かないということが鉄則だと思います。カーブ、つまり曲線は人間の感性に直接影響します。カーブに好き嫌いがはっきりと出るものです。私は、そういう意味で、いろいろなものをいただいても、気に入らないものはしまっておくという考えを徹底しています。たとえば、ガウディの椅子などは、気に入ったものとして身近にこうして置いているわけです。本物というものは、自分の感性を磨く上でどうしても必要なものです。そうした意味で、建築家にとって住まいは非常に大切なものです。自分の住まいをつくらずに、どうして他人の住まいを設計できるでしょうか。私の家は、いわば正教的な空間といえるでしょう。これは父親がつくったものです。その生活空間を受け継ぎ、次の代に引き継いでいくことが、私の役割であると考えております。建築とはそういう保守的なものだと思います。私の家は簡単な木造の家ですが、それでもストックとしては重要な意味を持ち得るわけです。私の家の近くには、昭和初期に建ったモダン住宅が数多くありました。しかし、気がつくとどんどんそれらは姿を消しています。一軒ぐらいは、昭和初期のにおいを残しておくことも、文化に対する責任ではないかと考えています。
これは、ラストレリというイタリアの建築家が建てたレニングラードのエルミタージュの一室です。装飾的な空間といえば私はいつもこの空間を思い出します。現代ではこれだけの装飾は不可能です。金を惜しみなく使ってます。バロック的な空間は美しいものです。現代の建築においても、人の心を和ませるというか、近づきやすくさせる手法はいろいろあります。そういうものを、近代的工業を使いながら、肌に近いディテール、全体のコンセプトのなかで生きたディテール、またディテールのなかに全体のコンセプトが見えるというようなことが重要だろうと思います。